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近藤勇

(社会)
こんどういさみ

1834年11月9日1868年5月17日)幕臣、新撰組局長。武蔵国多摩郡石原村の農家の次男として生まれる。15歳の時、天然理心流三代目近藤周斎にその人柄と腕を見込まれ養子となる。26歳で天然理心流四代目を襲名、4年後の28歳の時に試衛館一党で十四代将軍家茂の守護を目的とする浪士組に参加し、上洛。
しかし京入りした途端、清河八郎が尊王攘夷の魁たらんと称え、浪士組は江戸へ戻ると言い出したため、試衛館一党、芹沢一派らはそのまま壬生に残ることとなる。一同は鵜殿鳩翁らの計らいもあって京都守護職・松平容保のお預かりとなり、壬生浪士組が誕生した。
八月十八日の政変でその存在を知らしめた彼らは、その日のうちに松平容保から市中見廻りの内命を受け、その通達の文書によって「新選組」の名が与えられる。文久三年九月芹沢一派の粛清を決行。以降、近藤が唯一の局長として新選組を背負う。
慶応三年十二月十八日 二条城での軍議の帰り、馬に乗って伏見街道の墨染辺りへさしかかった時、高台寺党残党の篠原泰之進らに狙撃され、右肩に銃創を負う。一命はとりとめたものの、鳥羽、伏見の戦いには参戦できなかった。
江戸へ引き上げ療養後、鳥羽伏見を戦い抜いてきた土方はじめ、隊士達を率い甲陽鎮撫隊として甲府城の接収に向かうも勝沼で敗走、下総流山で新選組再編成を図るが敵方に囲まれ、大久保大和として投降した。
慶応四年四月二十五日、板橋において斬首。享年35歳。その首級は板橋宿外の一里塚に晒され、のち京の三条河原に梟首された。

名前

  • 幼名:宮川勝五郎(宮川家三男)
  • 嘉永3年頃より安政2年頃まで:島崎勝太
  • 安政4年頃より安政5年頃まで:島崎勇
  • 安政6年頃より万延元年頃まで:島崎勇と近藤勇の併用
  • 文久元年頃より慶応3年頃まで:近藤勇(つねと結婚後)
  • 慶応4年頃:大久保大和

近藤勇について

ある夜の宮川家に数人の強盗が押し入り、次兄の粂次郎が刀をつかんで飛び出そうとしたが、勝五郎(近藤勇)はそれを制して、「入ったばかりの賊は気が立っているもの。逃げる段になった時は早く逃げようと焦りも生じ、心に隙ができる。そこを衝くのが剣の秘訣だよ」と言ったので、兄も納得し二人で息を忍ばせて様子を窺っていた。とっとと引き上げようとした強盗たちを斬りつけると、逃げていく強盗を深追いしようとした兄に「窮鼠猫を噛むの言葉もある。このへんで引き上げるのが賢いですよ」と言い、何も盗られることなく退治した。
このことを聞いた近藤周助に見込まれて、後継者の指名を受けることになった。
まだ京都へ来て間もない頃に井上源三郎の実兄・井上松五郎の日記に「四月十七日早朝より壬生迄。八木氏邸へ参り、土方、沖田、井上に逢い、万端聞き承知いたし。何より近藤 天狗になり候」とある。
一橋家・渋沢栄一著書にある近藤人物評は「近藤は条理の分っている人物で、薩州人に対する例外を除いては、決して無鉄砲に乱暴を働く様な男ではなかった」と書いている。

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