明治時代、足尾銅山の操業が元になり発生した一連の騒動を言う。足尾銅山は群馬県と栃木県の境界、栃木側にある鉱山で、江戸時代前期に発見されていたが、本格的な操業は古河市兵衛が殖産興業・富国強兵を国策とする明治政府の支援を受け、近代的な施設を整備した明治時代に入ってからである。
公害は2つの側面があった。ひとつは原鉱石から産銅する過程で排出される亜硫酸ガスによる煙害、大気汚染および私伐で加速された森林の全滅。そのため多発した大洪水のたびにスラグ(残滓)が中・下流に流れ出し、有害な銅、亜鉛、カドミウムなどによって田畑・山野が不毛になる現象。これがもう一つの側面。
この被害は渡良瀬川流域をはじめ栃木、群馬、埼玉のみならず東京、茨城、千葉の一府五県に一部に及んだ。1890年、この問題が明らかになると、同年衆議院議員になった田中正造(栃木県選出)が国会で取り上げた。1900年、東京の政府などに陳情(「大挙東京押し出し」)に行こうとしていた農民が官憲と衝突する事件(川俣事件)が起こる。
国会での鉱毒問題の事態収拾に見切りをつけた田中正造は1901年、議員を辞職する。同年、明治天皇に直訴する。1905年、鉱毒の問題を隠蔽する意図で栃木県谷中村を廃村にして広大な遊水地にするという計画に対し、農民と田中正造は反対するが、谷中村民は近隣の町村、遠くは北海道に入植するという幕引きで、大正6年、谷中村は滅亡する。
そして足尾鉱毒問題は一応の解決を見るに至る。田中正造は、巨大な国家権力の前に苦杯を飲んだという形になったが、20巻に及ぶ『田中正造全集』(岩波書店)収録の日記、書簡、論考など正造の言葉はいまなお国の内外で愛読活用されている。