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足利義持

(社会)
あしかがよしもち

室町幕府第四代将軍。(在1394年〜1423年)

足利義満の嫡子。兄に天龍寺友山清師、同腹の弟に青蓮院門跡義円、主な弟に足利義嗣、大覚寺義昭、仁和寺法尊、相国寺虎山永隆、梶井門跡義承がいる。義満の存命中に将軍職に就任。が、義満が引き続き実権を掌握していた。
義満死後の1416年、上杉禅秀の乱を治めるとともに異母弟でライバルの足利義嗣を殺害。以後、父義満の政策を覆すような施策を打ち出す。
その代表が日明関係の断絶で、当初は「日本国世子源義持」として義満の死を明の永楽帝に報告し、引き続き「日本国王」に冊封されるが、日明関係を強化してきた斯波義将が死去した後は明からの使者を追い返し、明の冊封体制からの離脱を表明した。日朝関係においてはしばしば大蔵経を求める使者を派遣するが、倭寇鎮圧には消極的で、朝鮮王朝は倭寇の本拠地と考えていた対馬を襲撃する事件を起こす(応永の外寇、己亥東征)。義持は朝鮮王朝の真意を問う使者を派遣し、その答礼使として来日した宋希蓂と交渉をする。その時の様子は「老松堂日本行録」に詳しい。
1423年に実子の足利義量を将軍としたが、義量は在職2年で亡くなった。その後は将軍を置かず空位とし、義持が引き続き足利将軍家家督「室町殿(室町御所)」として政務を執った。
後継者を指名せずに亡くなったため、室町幕府第六代将軍は籤引きによる選出という、前代未聞の事態を迎えることになる。義持の庶兄清師と夭逝した法尊を除く4人で籖引きを行った結果、青蓮院門跡義円が後継に決定し、6代将軍義教となる。

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