江戸時代の大名で、徳川家康の直系の子孫にあたる家柄。 御三家、御三卿、御家門(越前松平家とその分家、会津松平家とその分家)、連枝(御三家の分家)から成る。御三家、御三卿は徳川姓を名乗り、その他の親藩は松平姓を名乗った。 徳川家康以前の分家や家康の異父弟の家系で松平を名乗る諸侯も多数あるが、これらは親藩大名ではなく譜代大名扱いであった。
大河ドラマ「どうする家康」に、徳川家康の母親である於大の方(松嶋菜々子)の夫として久松長家(リリーフランキー)が出ています。この久松家は、江戸時代には有力な親藩・譜代大名として幕府を支えていくのです。 於大の方は、家康の父・広忠に嫁いで家康を生みましたが、実家の水野家が織田方に組みしたため、今川家によって離別させられます。その後、再婚したのが久松長家で、二人は多くの子宝に恵まれたのです。 桶狭間の合戦で自立を果たした家康に、於大の方の縁で長家も従うことになります。家康は長家の子供たちを異父弟として認め、「松平」の姓を与えました。弟たちは数々の戦いに従軍し、兄の家康を助けてきたのです。 その一人…
日本史 江戸時代 幕藩体制 幕府の軍事基盤(武士の種類) 大きく、大名と直参(将軍直属の部下)に分かれていた。 大名は3種類に分かれた。 ①親藩大名:徳川一門。重要なのは、御三家という尾張・紀伊・水戸の大名。 ②譜代大名:関ヶ原の戦い以前から家臣であった者。 ③外様大名:関ヶ原の戦い以降から家臣であった者。彼らはこの中でも一番幕府に反発を持ちやすいので、遠い土地に置かれた。参勤交代によって、お金がかかり、反乱を起こす力をなくす。 直参は2種類に分けられる。 ①旗本:将軍に直接接触できる者。 ②御家人:できない者。 幕府の経済基盤 このころも年貢(米)によって、経済基盤を立てていた。 幕府が直接…
今週は放送がお休みということもあって、久しぶりにちょっとストーリーから外れた解説をしてみよう。時代劇などでもしばしば出てくる「三河譜代」というワードを掘り下げてみたい。 そもそも「譜代」というのはどういう意味か。元々の言葉としては「代々その主家に仕えること。また、その臣下」(『広辞苑』第五版)という一般名詞である。ただ、江戸時代に限定すると、この言葉にはもっと特別な意味が出てくる。つまり「譜代大名」の譜代だ。江戸時代の大名(いわゆる徳川大名、もしくは近世大名)は、大きく分けて三つあったとされる。すなわち、親藩大名、譜代大名、外様大名だ。このうち、親藩大名はざっくりいえば家康の「親」族、すなわち…
序文・徳川家康の次男 堀口尚次 結城秀康、松平秀康、天正2年 - 慶長12年は、日本の武将、大名。越前国北荘藩初代藩主。徳川家康の次男。越前松平家の祖。豊臣秀吉の養子となり羽柴秀康を、結城晴朝の養子となり結城秀康を名乗り、関ケ原の戦い後、松平姓に復した。 天正2年、徳川家康の次男として遠江国敷知郡字布見村で生まれた。母は永見吉英の娘・於萬の方〈長勝院〉。幼名は於義伊と名づけられた。天正7年、武田勝頼との内通疑惑から織田信長の命令により、兄・松平信康が切腹させられる〈近年では信康が家康と対立したために切腹させられた、ともされる〉。 このため、次男である結城秀康は本来ならば徳川氏の次の後継者となる…
今日は江戸城の総構え外周を一周してきました。西半分は外堀通りと一致しますが、外堀は大名屋敷などの武家地のエリアを囲う堀であり、銀座や日本橋などの町人の暮らす城下町を含めた最外郭の防御ラインが総構えになります。今回はどの程度江戸時代の遺構が残っているかを確認するのが目的です。 神田川と隅田川の合流地点にある柳橋に到着。小ぶりですが立派な橋ですね。関東大震災の復興事業として昭和四年に完成した橋です。ここから神田川→外堀へと江戸城を反時計回りに一周します。 柳橋のある一帯は、昔は平右衛門河岸と呼ばれていたそうで、今でも多くの船宿の船溜まりとなっています。 江戸城三十六見附のなかで一番北東にある浅草見…
鶴ヶ城 帰省の途中で会津に寄り道した。 GW前日の28日夜に千歳空港から仙台に飛び、翌朝仙台から会津若松までの高速バスを利用した。 バスは2時間半かかったが、朝8時前に出たので会津についたのは10時半である。 途中東北道を通ったが、GW初日とあって普段は家に隠してあるであろう珍しいクルマや高そうな車の割合が高く、追い越し車線でイキッているバカも散見された。 さっそく土産を買う バスを降りたのが鶴ヶ城の真ん前で、そこに早速よさげな地元の菓子屋があったため、いきなり土産を買ってしまった。 会津葵の「かすていあん」は美味しいのだが、箱がかさだかくて後悔した。 鶴ヶ城北出丸 官庁街と鶴ヶ城の間になぜか…