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規律訓練型権力

(一般)
きりつくんれんがたけんりょく

そしてフーコーは、このような権力は「規律訓練」の場を通じて作動すると論じた。『監獄の誕生』は、ひとつ分かりやすい例を挙げている。それは、イギリスの社会思想家、ジェレミー・ベンサムが十八世紀末に考案した特殊な監獄様式である(図)。「一望監視施設」(パノプティコン)と呼ばれるこの様式では、中心に塔が、周囲に円環状の牢獄が配置されている。牢獄は扇状の小さな独房に区分けされ、それぞれ塔に向かって窓が開かれている。塔からは独房が監視できるが、光量と角度の関係で独房からは塔の内部は見えない。つまり、囚人は、つねに監視される可能性に曝されているが、しかし現実に監視されているかどうかは分からない。看守がいようがいまいが、つねに架空の視線に怯えて暮らさねばならない。結果として、彼らは、監視の視線を徐々に内面化させていくことになる。つまり、自分で自分を監視するようになる(注3)。

そしてフーコーによれば、この「視線の内面化」こそが、規律訓練型権力の雛型をなしている。近代以前においては、監視者はつねに被監視者の前にいなくてはならなかった。権威や暴力を根拠に作動する単純な権力は、その根拠が失われればすぐに消えてしまうからだ。しかし近代では監視者は不在でもよい。というよりも不在のほうがよい。監視される対象のなかに監視の視線が内面化されたとき、そのときこそ監視はもっとも効率よく機能する。

この表現は逆説に響くかもしれないが、考えればすぐ分かることである。たとえば小学校の教室では、教師がつねに目を光らせる必要がある。しかし、中学に上がり、教師の視線を内面化した生徒は、教師が不在でも学習を続けるようになる。義務教育は、知識や技能の伝達というより、そのような視線の内面化を目的にしている。近代社会の市民は、国家に抑圧される受動的な存在ではなく、国家に奉仕するように規律訓練された能動的な存在なのだ。その規律訓練(discipline=しつけ)は、学校や工場、監獄、病院など、あらゆる場で行われている。

波状言論>情報自由論>第3回
http://ised.glocom.jp/keyword/%E8%A6%8F%E5%BE%8B%E8%A8%93%E7%B7%B4

近代社会は、その秩序維持のために、国民国家という「想像の共同体」を作りあげ、「国民」として人々を統合した上で、その秩序を維持してきた。その役目を担っていたのが近代教育制度とイデオロギーであった。それは、社会を一つにまとめあげるための「大きな物語」、あるいはジャック・ラカンの言うところの「大文字の他者」である。こういった価値観を伝達し、徹底させるために、学校・軍隊・監獄が整備された、ということは既にミシェル・フーコーが指摘するところでもある。こういった、人々を統合し訓練を加えることによっての秩序維持の方法を、東浩紀の言葉をかりれば「規律訓練型」の権カと呼ぶことができる。この力の作用が即ち秩序維持であるとも言えた。例えば、フーコ一が『監獄の誕生』で例示したべンサムのパノプティコンも、上記のような規律訓練のコンテクストにおける建築的表象と言えるだろう。そして、そういったコンテクスストのなかで、イデオロギーも秩序維持のための共通の枠組み、即ち先に挙げた「大きな物語」あるいは「大文字の他者」もしくは大澤真幸の言う「第三の審級」として、機能していたのである。

http://kingo.t.u-tokyo.ac.jp/ohno/po/environseminar-folder/02hirabayashi.htm

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