・神護景雲4年(770) 群臣は、称徳孝謙皇帝の遺詔を根拠として、白壁王を皇太子に立てた。(『続日本紀』) 〔参考〕『日本紀略』所引の「百川伝」によれば、左大臣,藤原永手、右大臣,吉備真備、参議,藤原宿奈麻呂・雄田麻呂・近衛大将・蔵下麻呂兄弟、藤原縄麻呂、石上宅嗣らによって合議が行われたのだという。吉備真備は文室浄三や文室大市を推薦したが、結果として称徳孝謙皇帝の遺詔を根拠として白壁王に決定したとされる。その遺詔は雄田麻呂らによって偽作されたものだという。 ※真備の娘,由利は、称徳孝謙皇帝が崩御するまでの100日ほどの間、臥内に1人だけ出入りしていた。そのため真備は娘を通して称徳孝謙皇帝の意向…