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蒋介石

(社会)
しょうかいせき

Jiang Jieshi (1887年〜1975年)

中国/中華民国の政治家。中華民国総統。浙江省出身。名は中正*1。『介石』は字(あざな)である。

1908年から日本に留学して陸軍士官学校*2に学ぶ。留学中に中国同盟会に参加し、1911年の辛亥革命勃発を機に帰国。その後、革命運動に参加したり、浙江財閥とのコネクションを得たりする。
1923年に孫文の命で訪ソし、翌1924年には国共合作が成立する。軍閥の討伐で活躍した後、孫文が死去すると国民党政権(国府)の実権を掌握。
北伐を再開するとともに国共合作を放棄、中国統一を目指す。北伐の成功によって(一応の)統一を達成すると、権力基盤の強化を行った。
1931年に柳条湖事件以後、日本との軍事的対決が始まるが、蒋介石自身は国内統一*3を優先する立場から、これには積極的な対応を避けた*4
が、1936年12月12日に西安事件が発生、第二次国共合作と抗日統一戦線の成立という事態になり、翌1937年の盧溝橋事件(と第二次上海事変)を契機に日本との全面戦争に突入する。戦場での対決は概ね日本軍の勝利に帰したが、蒋介石は首都南京を放棄して内陸部へ後退する。
以後、戦争は極めて20世紀的な非対称戦となり、蒋介石は重慶に本拠を置いて戦闘を継続。日本軍は占領地を拡大してもその安全を確保できず、大量の兵力を大陸戦線に張り付けたまま、連合国との破滅的な戦争に突入。
1945年、日本の敗戦に伴い、蒋介石は戦勝国の一員となった。必然的に国共合作も崩壊して共産党との内戦が再燃する。当初はアメリカの援助を受ける国府軍が優位に立つが、軍内の腐敗や共産党の行った農地改革などの影響によって敗北。1949年に蒋介石は国府軍の残党とともに台湾に脱出した。
以後、台北にあって亡命政権を率い、正統な中国政府との立場を主張しつつ大陸への反攻を唱えた。
1975年、病死。

*1:字でなく名が中正。なので、本来は「蒋中正」になる気がします

*2:の別科である日本振武学校

*3:各軍閥の残党であるとか、共産党であるとかへの対応

*4:軍事的に日本と正面切って戦っても何も得ることはないから当然といえば当然

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