プロ野球選手・指導者・評論家。現役時代のポジションは二塁手・一塁手・三塁手。
妻はマルチタレントの落合信子さん
1953年12月9日生、秋田県男鹿市(旧秋田郡若美町)出身。右投右打。背番号は6→60→6→3番。監督としては66番。
秋田工→東洋大中退→東芝府中から1978年のドラフト3位でロッテ入団(1979年)。その後、中日(1987年)・巨人(1994年)・日本ハム(1997年)に在籍した。
秋田工から東洋大に進学したものの野球部の練習に馴染めず入学早々の5月に退学。秋田に帰郷しプロボウラーを目指すが、20歳の時にふたたび野球に戻り東芝府中の門を叩いたことは有名。1980年シーズン途中に一軍にあがった。
オレ流を貫く姿勢とキャラクターの濃い奥様(信子夫人)とお子様(福嗣くん)も有名。
和歌山は那智勝浦に落合博満野球記念館を設立している。
2004年、「サムライ街道 (CCCD)」発売。(1986年のEP盤の復刻)
2011年、野球殿堂入り。
2014年、中日ドラゴンズのゼネラルマネージャーに就任。
1987年には1対4(牛島和彦投手、上川誠二内野手、平沼定晴投手、桑田茂投手)の超大型交換トレード*1で中日に移り、日本人初の一億円プレーヤーとなった。
1994年、FA宣言し読売ジャイアンツに移籍。
1997年、自由契約になり日本ハム・ファイターズに入団。1998年、現役引退。引退試合は辞退。
名球会入りを拒否した人物でもある。
2000本安打を41歳4ヶ月で達成し、最年長記録保持者となっていたが、2012年5月4日に宮本慎也が41歳5ヶ月で2000本安打を達成するとその記録は塗り替えられた。現在では歴代3位の記録となっている。
2004年から中日ドラゴンズ監督に就任。
山田久志前監督解任を発端に、中日球団首脳部では、生え抜き(或いは長期間在籍した)OBの監督就任を望んでいた。そこで浮上したのが、落合博満の名前であった。
落合本人は、電話での就任要請に対し一旦躊躇するも、信子夫人の「やりなさいよ!」の一言で決意する。
就任後、セ・リーグ各球団は着々と補強を進め戦力増強を図る中、「現有戦力で十分。補強は最低限」という落合監督の方針により、巨人を退団した川相昌弘と横浜を退団したドミンゴ・グスマンなど極少数の補強に留まった。
オフにおける戦力補強が最早常識となった現代プロ野球において、現有戦力を中心としてシーズンに臨む球団に、ファンは一抹の不安を感じたが、落合博満の野球理論と厳しいキャンプを乗り越えた選手たちを信じる姿勢がチームを一丸とさせ、6月下旬からは首位に立ち、安定した試合展開を見せた。
その采配は、かつて在籍した現役時代の高木守道監督の采配を参考にしていると言われる。
そして、2004年10月1日。本拠地ナゴヤドームで優勝が決定。就任一年目にして優勝監督となった。
2007年の日本シリーズでは、完全試合寸前の山井大介を岩瀬仁紀と交代させるなど彼の采配には賛否両論が常にはらんでいる。
2011年、任期満了で監督を退任。