評論家。1913〜1979 福島県生まれ。 1938年東京帝国大学英文科を卒業後、東京新聞の文芸評論委員として、文芸時評等を執筆する。 1946年同人雑誌「近代文学」の創刊に加わる。 代表作に、「第二の青春」、「夏目漱石研究年表」がある。
また、ミステリ、SFにも興味を示し、江戸川乱歩賞の選考委員もつとめた。
『批評』(復刻版)合本にて全6巻。原本は昭和14年8月創刊、山坂あって最終号は昭和20年2月発行。文芸批評の同人雑誌だ。復刻版刊行にさいして、総索引や解説を付して、歴史研究の一次資料たるの便宜が整えられた。 「山坂あって」というのは、同人雑誌維持の苦労を味わった者であれば容易に想像がつくはずの、窮境やらゴタゴタによって、間遠になった時期もあるという意味だ。しかも窮屈な軍国主義下であり、戦時下である。同人各個の身の上にも身辺事情にも、苦境異変数えだしたら切りがあるまい。徴用された者も、病気療養した者もあったろう。姿を隠さねばならなかった者すらあったかもしれない。むしろよくぞここまで、この雑誌が発…
年頭愕然。そして反省。そして決断。 拙宅内の片づけに重大な障害となっているもののひとつは、わが生涯にもはや再読の機会は訪れまいと思える書籍類だ。場所を塞ぎ、移動を妨げ、よろづ片づけの邪魔となってある。 中味を空にした箪笥だの、故障したままの家電だの、運び出したい家具は眼に余る。しかし出せない。まず床積み・階段積み・箱詰めの書籍・書類を、書架およびせいぜい書斎の床へと移動させなければならない。それには書架および書斎を空けなければならない。古書肆のお世話になるほかない。三日坊主に陥らぬよう、整理の模様をブログに記録してゆくとしよう。我ながら悪くない着想だった。 で、昨年から「古書肆へ出す」シリーズ…
みそ【味噌】 も 糞(くそ)も一緒(いっしょ)善悪・優劣・清濁など、性質の異なるものを区別しないでひとつにすること。何もかもごちゃまぜにすること。※中野重治論‐晴れた時間(1946)〈荒正人〉「その動機、態度、精神などをよく落ち着いてみることもしないで、味噌もくそも一緒くたにして」
まともな論文を掲載するスペースが更に無いのだから、真実を伝えている訳はないのである。2015年10月07日今月号の月刊誌「正論」にも、朝日や毎日を購読し、テレビ朝日やTBSの報道番組だけを観て生きている人たちには、全く分からない真実が満載されている。それでいて料金は780円である。一方、限りある紙面の半分ほどを、スポーツ紙と同様な広告で埋め尽くしている朝日は、それでいながら、料金は月額約5,000円である。 以下はp178~p187に渡る、朝鮮問題研究家、阿部南牛さんの労作からである。 安部南牛氏 昭和14(1939)年、福岡県生まれ。工学院大学卒業。旧通産省工業技術院、化学技術研究所主任研究…
今まで漱石唯一の私小説的作品とありきたりの感想ですませていた『道草』に引き込まれました。『道草』は1915年に書かれましたが、1903年から翌年にかけてのことが書かれています。荒正人著の『漱石研究年表』(集英社/1974年)のその時期をみると、小説に出てくる出来事が実際にあったこととわかりますが、取り上げなかったことも多く、明らかな取捨選択の基準があったように考えられます。主人公健三が取り上げることになった衝撃的な三女の出産は1903年11月3日で、年表にはそのようなことがあったのかは書かれていません。しかし不仲から妻を二度実家に帰らせたことなど、妻に関することは克明に小説に書いているのですか…
380.『道草』へ至る道(4)――寺田寅彦の功績と世紀の誤植 本ブログ草枕篇で堤重久の『太宰治との七年間』という本から長々と引用したことがある。太宰治が教師であったことは1度もないから趣きは少し異なるが、ここで漱石の一番弟子寺田寅彦の古典的な回想録を引用したい。引用元は岩波の漱石全集別巻「漱石言行録」である。 熊本第五高等学校在学中①第二学年の学年試験の終った頃のことである。同県学生のうちで試験をしくじったらしい二三人の為にそれぞれの受持の先生方の私宅を歴訪して所謂「点を貰う」為の運動委員が選ばれた時に、自分も幸か不幸か其一員にされてしまった。其時に夏目先生の英語をしくじったというのが自分の親…
377.『道草』へ至る道(1)――『門』から『道草』執筆まで 『門』は漱石が始めて夫婦を主役に据えた小説である。宗助と御米は好き合って一緒になった若い夫婦である。宗助は漱石を彷彿させるが、御米は鏡子と共通点のない、全体として漱石夫婦とは別世界に暮らす夫婦である。そのためというわけでもなかろうが、同じ年漱石は始めてといっていい大病と入院を経験した。 前項で述べた『道草』の主眼点(夫婦のあり方)と執筆動機(大病の繰り返しで残された時間を意識せざるを得ない)を考えると、その2つながらの起点たる明治43年(『門』と修善寺の大患)から、『道草』執筆に至る漱石の道のりを再確認することも、無駄とは言えまい。…
375.『道草』はじめに(1)――道草を食ったのは誰か 本ブログは『三四郎』『それから』『門』の初期(青春)3部作、『彼岸過迄』『行人』『心』の中期3部作のあと、晩期3部作の緒篇、『道草』に入るはずであったが、その前に、『坊っちゃん』『草枕』『野分』の「明治39年怒りの3部作」に寄り道してしまった。 次に進むべき路は『野分』の次回作『虞美人草』かも知れないし、さらに遡って『猫』かも知れないが、『虞美人草』は漱石自身が否定的に捉えている作品であるし、『猫』はただの dilettante に過ぎない論者(筆者自身のこと、以下同断)には余りに荷が重い。 ということで、ここで晴れて『道草』に戻ることに…
1850年 曾祖父・八三郎生まれる。 1855年(安政2)内ノ子騒動 1866年(慶應2)奥福騒動 1894年(明治27)父・好太郎生まれる。祖母はフデ。 1902年(明治35)母・小石生まれる。 1914年(大正3)20歳の父と12歳の母が結婚。 1919年(大正8)祖父この頃死ぬ。数え五十歳。 1923年( 12) 姉・一生まれる。 1924年4月24日、好太郎、明智新六らと大瀬革進会を結成、総選挙で窪田文三を応援と決定する。(史料愛媛労働運動史4巻、124p、愛媛新報) 1929年(昭和4)長兄・昭太郎生まれる。? 次兄・清信生まれる。 1933年、姉・重子が生まれる。 5月15日、伊丹…
(本作品の犯人、トリックから動機まで、あらいざらいぶちまけています。) 『本陣殺人事件』については、すでに語り尽くされていて、もはや新たな論点は残されていないように思える。 しかし、その評価は、我が国のミステリ史に新たな時代を切り開いた長編ということで衆目は一致するものの、若干の見解の相違が見られるのも事実のようだ。本書完結直後の昭和20年代、探偵小説作家の多くが傑作と評価する一方で、ミステリ好きの文芸作家は、むしろ『蝶々殺人事件』を支持したということは、よく知られている[i]が、それ以外にも、とくに本書の密室の謎をめぐって、評価は二分されるようである。 すでに、江戸川乱歩が本作の完結直後に発…