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茂庭綱元

(社会)
もにわつなもと

戦国時代〜江戸時代初期の武将。伊達家家臣。時代劇・ゲームなどでは専ら『茂庭綱元』の名で登場するが、茂庭家の家系図などでは『茂庭延元』名で記されており、どちらが正式な諱なのか、もしくは改名したかなど細かい事情は不明。


一族。藤原氏。本姓、斉藤。中姓、鬼庭。
伝では斉藤別当実盛の一族、斉藤内蔵人行元が祖。もとは山城国八瀬に住んでいたが下総・下野国を経て3世監物実良の時、伊達郡茂庭村に来た。
ここで巨蛇を退治したことから鬼庭氏を称した。のち伊達朝宗に仕えた。
13世左月良直は、人取橋の戦いで戦死。その子が綱元である。
天正3年(1575)27歳で継家。父と共に人取橋の戦いに従軍。同14年奉行職に就任。
同16年5月、石川郡百目木城にて500貫文を給される。
同18年6月、柴田郡沼辺村、同19年6月、西磐井郡赤萩村に移転した。
文禄元年(1592)朝鮮出兵では名護屋留守居を務める。この間、秀吉の命により茂庭に改姓。
また彼の愛妾・香ノ前を賜った他、居宅を賜るが、こちらは固辞した。
こうした関係が伊達政宗の誤解を受け隠居を命じられた。
政宗の元を離れた後、本多正信の仲介により徳川家康に誘われるが辞退。
この時、中白鳥毛槍を賜った。慶長2年(1597)伊達政宗と和解。
同5年、白石の戦いでは馬上90、長柄200、弓100、鉄砲250の陣容で参陣。
同年12月、隠居料として栗原郡三迫で110貫文を給される。
同9年3月、伊達政宗五男・摂津宗綱の後見を命じられ500貫文に加増。
しかし、元和4年(1618)5月、宗綱が16歳で没し、以降3年間、高野山で菩提を弔う。
のち宮城郡下愛子栗生に邸宅を拝領した。
寛永13年(1536)伊達政宗が没すると、愛子から栗原郡門地村に隠棲した。
翌14年廃寺古仙院を再興し、洞泉院を創建、伊達政宗・宗綱の霊を弔った。
岩ヶ崎町に残る茂庭町の地名は百姓・町民が尊慕して呼んだものである。

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