第二代天皇。 古事記では神沼河耳(かむぬなかわみみ)、日本書紀では渟名川耳。綏靖天皇。 神日本磐余彦天皇(神武天皇)の第三子。母は媛蹈鞴五十鈴媛命、事代主神の長女。
子は、息石耳命、磯城津彦玉手看天皇(安寧天皇)がある。
前581年1月8日〜前549年5月10日
四代懿徳五代孝昭間、六代孝安七代孝霊間、九代開化十代崇神間を切って世代を見直した『世代修正系図』から見えてくる世界。(参照:世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱) 今回は西暦200年前後の様子を紹介する。 ホホデミは即位後、程なくして亡くなる。ここで、皇后イスケ依姫はホホデミの長男タギシミミを男王に選ぼうとする。一方、川派(カワマタ)姫がイスケ依姫を追放するクーデターを起こし、川派姫の夫である渟名川ミミが男王として第二代綏靖天皇となる。2世紀末のことである。※男王がメインか、女王がメインかで、話は変わる。神武天皇は明らかに三輪祭祀の巫女を出す磯城県主家に婿入りしていて、発言力があっ…
古事記 時が過ぎ、神武天皇は崩かむあがり(天皇がなくなること)ました。 享年137歳でした。 神武天皇の阿比良比売あひらひめとの間の子・多芸志美美命たぎしみみのみことは 強引に須気余理比売いすけよりひめを自分の妻とした上、 三人の異母兄弟(日子八井命ひこやいのみこと、神八井耳命かむやいみみのみこと、神沼河耳命かむぬなかわみみのみこと)を殺して、 皇位を奪おうと企みました。 それを知った須気余理比売いすけよりひめは、三人の御子を救いたい一心で、 子供達にその陰謀を伝えるため、次の歌をお詠みになりました。 危機が目前に迫っていることを伝えようとしたのである。 狭井河さゐがはよ 雲立ち渡り 畝火山う…
高丘宮跡後日寄った天皇陵を追記! 綏靖天皇陵
史遊会の古代史教室見学会 「大和・今井の寺内町と建国伝承地の陵墓をめぐる」昼食後後半「スイセン塚古墳」です。 「山本山 大師堂」から「スイセン塚古墳」、江戸時代「第二代綏靖天皇」陵に比定され、全長71m 後円部径46m高さ6m 前方部先端幅30m高さ3mのこの地方では珍しい前方後円墳で、綏靖天皇のスイゼイがなまったものとして綏靖天皇陵とされてた様です。 未調査で葺石や埴輪の出土は無く、築造時期は古墳時代前期~中期(5世紀後半)と推定され、地元の古老の話では盗掘跡とみられる穴もあった様です。 スイセン塚古墳への途中、この辺りの村墓だと思いますが、太平洋戦争での戦死者の墓石が階級の区別なく目立つよ…
史遊会の古代史教室見学会 「大和・今井の寺内町と建国伝承地の陵墓をめぐる」昼食後後半の建国伝承地の陵墓「綏靖天皇陵」です。 大和三山の一山、畝傍山の山裾を取り囲むように初代 神武天皇陵、第2代 綏靖天皇陵、第3代 安寧天皇陵、第4代 懿徳天皇陵、それとかっては綏靖天皇陵に比定されてたスイセン塚古墳、 途中で銘水の湧く太子堂と廻ります。 最初は「第2代天皇 綏靖天皇陵」御陵名は桃花鳥田丘上陵、塚根山古墳と云われた径16m 高さ3mの小さな円墳を綏靖天皇陵として整備比定されてますが、欠史八代中の御一人なんで実在説には疑問が有り伝説の天皇とされる神渟名川耳天皇です。 国道161号線を次の神武天皇陵に…
今回は事代主神(ことしろぬしのかみ)を取り上げる。その事代主神との関係性から綏靖天皇(別称は神渟名川耳尊)を調べる。次の流れで紹介していく。 ・事代主神・事代主神の子供・媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)・媛蹈鞴五十鈴媛命の名前について・媛蹈鞴五十鈴媛の妹・揖夜神社(いやじんじゃ、いふやじんじゃ) ■事代主神実在の人物。ヤマトタケルに国譲りしたオオクニヌシの後頃の時代と思われる人物。 推定で西暦320年~350年くらいが生年となるような人物だろう。 古事記においては・大国主神・神屋楯比売命(かむやたてひめのみこと)の子供とされている。 日本書紀では・大国主神・高津姫神(タギツヒメ、多岐都…
東横イン奈良王寺駅南口。起床は5時半。6時半から朝食。今日は葛城古道に行くことにした。葛城古道は、明日香に泊まった際に若葉のおかみさんが「お客さんで何回も葛城古道に行ってる人がいるのよ」と言うのを聞いた時からずっと気になっていた。 和歌山線7時発高田行きは6両編成。なんでこんなに長いのか?当然ガラガラ。高田で721発和歌山行きは向かいのホーム。4両編成で真新しい電車。車内にはスイカのタッチ。初めて見たかも?放送は自動放送。そしたらハングルが!そういや前に御坊でもこんなんあったような?ハングル話者が乗ってるかわからないのに、こんな田舎で流す必要あるんか?風情も何もなかった。 728、御所到着。駅…
神武天皇の皇子、神八井耳命 (かむやいみみのみこと) は第二代・綏靖天皇の兄御子で、多氏の祖とされている。 日本書紀は畝傍山の北に葬られたと記す。 かつて八井神社と称されていたとされる八幡神社 (橿原市山本町) の本殿がたつ、盛り土状の小丘が、その神八井耳命の墳墓であると見做されている。 ~目次~ 八幡神社 御陵山 神功皇后信仰 畝火山口神社 仙洞御所 陽物信仰 おわりに 八幡神社 橿原市山本町 (旧 山本村) の集落からすこし離れて、畝傍山の山中にあしを踏み入れたとき、ちいさな八幡神社を見過ごさずに立ちどまれたことは、幸運だった。それは八幡神、あるいは村の鎮守といった言葉から想像されるたたず…
春季皇霊祭 毎年春分の日に宮中三殿の皇霊殿において行われる大祭。秋分の日の秋季皇霊祭と同じく、歴代天皇・皇族を祭られる祖先祭である。天皇陛下は午前10時、皇霊殿に出御され、玉串を奉って拝礼ののちお告文を奏される。続いて皇后・皇嗣・同妃が順に玉串を奉って拝礼されることになっている。 皇室における祖先祭祀は、古くは陵墓が中心だった。それが、平安時代には御所において主に仏式が採られることになり、御黒戸(おくろど)という場所には歴代の位牌が安置されていた。明治を迎えると皇室においても神仏分離が行われ、位牌はすべて京都の般舟院と泉涌寺に移され、皇霊は明治2年神祇官神殿に祀られることとなった。続いて、明治…
【箸墓古墳】(はしはかこふん) 第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓 倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか) 【倭迹迹日百襲姫命】は≪日本書紀≫にて 崇神天皇に神意を伝える巫女的な女性として描かれ 大物主神の妻となったが、神がやってくるのは夜で百襲姫は神の姿を見たいと願った。 大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、これを見た百襲姫が驚き叫んだため、 神は御諸山(三輪山)に姿を消した。百襲姫は悔いて座り込み箸で陰を突いて亡くなり 故にその墓を箸墓と呼ぶようになったと記す。 「是の墓は日に人作り 夜は神作る。故大阪山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに人…
神武天皇(王獲の化身)ー綏靖天皇ー安寧天皇ー懿徳天皇ー孝昭天皇ー孝安天皇ー孝霊天皇ー孝元天皇ー彦太忍信命ー屋主忍男武雄心命(別名は屋主忍男武猪心命、武猪心命)ー武内宿禰命(母は木国造祖の宇遅比古命の妹の影媛)、甘美内宿禰命(母は意富那毘の妹の葛城之高千那比売)。 武内宿禰命のことを渡来人と言っている人がいますが、渡来人ではありません。しかし、その祖先の神武天皇は王獲という渡来人です。 武内宿禰命は先祖の一人。
「古代史の復元」の紹介 https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/12/29/022326 150 孝元天皇・開化天皇 https://mb1527.thick.jp/N3-19-1kougen.html 日本書紀における、即位年齢は、 神武・綏靖・開化・崇神天皇が何れも51歳である。 偶然にしては重なりすぎである。 綏靖天皇は後で51歳で即位したように生誕年を逆算したようであるが、 51歳即位には何か意味があるのであろうか。 この当時成人年齢は31歳で孝昭天皇が最低年齢で即位している。 これは、前天皇が1年前に崩御しており、その崩御を隠していて、 孝昭天…
下鴨神社こと、京都市左京区下鴨蓼倉町『賀茂御祖神社』 2023,12,17 前記事の続き。宮下文書視点から富士朝『加茂山』と、その見立てと思われるカモ神信仰を考察しています。 (´(ェ)`) ~目次~ 加茂山、もう一つの悲劇。 山城国貴船山にて、歴史がハッピーエンドにスリ替わる。 賀茂御祖(ミヲヤ)神≒ウガヤフキアエズ? 大和・山背・河内はウガヤ朝祭祀の地、浮き彫りとなるカモ氏の正体。 大和と甲斐をつなぐ、ミワ×カモ・レイラインとは…。 結局、西国のカモ神祭祀とはなんなのか?。 貴船神タカオカミの正体とは? 〈月桜田毘女解明〉日月がすれ違う『写し鏡』から、瀬織津姫命は生まれた?。 - セキホツ…
初期の天皇の和風諱号(しごう)には「彦」が付いたもので占められています。第2代 綏靖天皇(すいぜい) と第15代 応神天皇 以降は「彦」がつきません。 下に初代から第15代応神天皇までの歴代天皇の一覧を書きました(Wikipediaのコピー。明治以降に確定したもの)。 記紀は8世紀に作られております。 8世紀当時のものと比べてだいぶ書き換えられています(随分いい加減な扱いですw) 初代~15代までの天皇一覧 代 漢風諱号 読み 和風諱号御称号、幼名、別称 1 神武天皇 じんむ 神日本磐余彦天皇狹野(異称)始馭天下之天皇 2 綏靖天皇 すいぜい 神渟名川耳天皇 3 安寧天皇 あんねい 磯城津彦玉…
治田神社の下宮は意外と近い場所にあった。ひとつの村だったのが、規模が大きくなった為に分裂したという経緯だからかなー? 歩いても20分かからないようだ。1km程度しか離れていない。 溜池がある。桜の木が並んでいるので、春はお花見で賑わうのかもしれない。 池は並んで2つある。2つ合わせて治田池とも呼ぶらしい。どっちがどっちか分からないが、慶安元(1648)年に上田藩直轄工事で造成した池を上池または女池、明和2(1765)年に地元民が作った池を下池または男池と呼ぶそうだ。 ここは姥捨山(冠着山)の遙拝所にもなっているらしく、石碑がいくつもあった。明治22(1889)年に「冠着山=姥捨山」と確定された…
千葉県袖ケ浦市飯富字東馬場に鎮座します飽富(あきとみ)神社です。君津地方で唯一の式内社で、千年以上前から存在した歴史的価値の高い古社として知られます。旧称は飫富神社。主祭神は農業神の宇迦之御魂神(倉稲魂命)と神八井耳命と天富命。稲荷の信仰とは関係のない神社でした。創建は、社伝によりますと、2代綏靖天皇元年BC581年。天皇の兄の神八井耳命が創建したと伝えている。神八井耳命の後裔多氏と神社との関連が推測されています。 この神社の近くに国史跡の南北約110メートル、東西約140メートルに及ぶ千葉県南部最大級の山野貝塚があります。その貝塚付近の高台(当時は半島の先)の鬱蒼としている森の中に静かに鎮座…
概要 耳王家と磯城県主家によりはじまった初期天皇家は祭祀性の高い王家で四代懿徳天皇の代で一旦途絶える。崇神天皇が祭祀世俗統一王となるが、祭祀は手に負えず早々に手放して、耳王家と磯城県主家を受け継ぐ倭根子王家が祭祀を継承し、この血筋は吉備と深い関係を持ちつつ、ヤマトタケル、仲哀天皇、忍熊王を産み、傍系は吉備氏として大発展するも、息長系王家の雄略天皇により息の根を止められた。なお、前方後円墳文化はハエイロネ(倭国香姫)・モモソ姫の母子により完成されたと見られる。 倭根子王家・吉備氏系図※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる -…
文字霊日記・3359日目 ボッチの遊び相手は「はえ」さん・・・ 以前、 ニャンコのモモとブブが旅立ってから 家の中で会話するものも存在せず 一匹の家蝿(housefly)が 越冬するつもりだったのか 「冬の蠅(蝿・はえ)」 となって ボクと愛(いと)しい友達のようになってくれていた 多分・・・チコやモモやモウ君・・・それとも・・・ ダレかの生霊、死霊が 憑依して遊びに来てくれている・・・と 纏(まと)わり憑かれていたのだが この友人も身罷ったのか現れることもなくなった ボクは随分と鬱陶しいアイツを待ちワビていたのに・・・ 今年 今夏の暑さが始まる前、一匹の 「クマンバチ(熊蜂)」 が侵入してき…
記録から削除された天皇がいる。削除されたのは、男性天皇6人、女性天皇5人。および開化天皇と崇神天皇のあいだの17代(全員男性)削除された女性天皇綏靖天皇の後、在位26年孝霊天皇の後、在位19年景行天皇の後、在位15年仲哀天皇の後、神功皇后、在位3年雄略天皇の後、在位2年卑弥呼とは、二人の女性天皇の記憶が一人の人物として伝わったもの。その二人とは、孝霊天皇の後の女性天皇と神功皇后のこと。男性天皇6人が削除された理由は、婿養子だから。削除された男性天皇綏靖天皇の後の後、在位15年孝昭天皇の後、在位7年孝元天皇の後、在位11年履中天皇の後、在位15年天智天皇の後、在位4年光仁天皇の後、在位7年孝昭天…
初期天皇家系図 ※系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。 崇神天皇に至る基本的な経緯は以下の通り(参照「解説:第五代孝昭天皇と第十代崇神天皇の出自と水銀朱利権について - 上古への情熱」)。①弥生時代後期、事代主一族が那賀川上流の水銀朱鉱山を開発。②その後、大物主一族が、日向出身の饒速日と、那賀川の事代主一族のトミ彦とともに、大和の宇陀の水銀朱鉱山を開発。③噂を聞きつけた日向のホホデミ(初代神武天皇)が三輪山麓に乗り込んできて、大物主一族と手を結び、饒速日とトミ彦の一族を追い出した。④しかし物流は…