1900−1977
作家
画像はタルホ自身が描いた『ヒバリの世界』
1900年明治33年12月26日、大阪・船場に歯科医を営んでいた父忠蔵の次男として生まれる。(『タルホ事典』の高橋康雄編では2月26日となっているが、ミスプリントだろう)上に10歳違いの姉千代。
「マックス・プランクが『近世』を絶縁する量子常数『h』を発表した同じ年の、同じ12月の終わりに私は大阪市船場にに生まれた」『東京遁走曲』
幼い頃は航海家を志し、映写機械、活動写真のフィルムに興味を持つ。観世流の謡曲を津田三四郎、伴葛園に、仕舞を葛園の娘伴時子に習う。伴時子の影響で牧水詩集や竹久夢二、洋画などを知る。7歳のとき両親と供に兵庫県明石に引越す。12歳のとき須磨天神浜で、生まれて初めて米人飛行家アトウォーターの水上飛行を見て感動する。
1913年 大正2年 大阪天王寺公園で催された全国発明品博覧会の武石飛行記念館を見に行く。その武石浩玻の白鳩号は操縦者の浩玻が墜落死したあとの機体で無残に壊れていた。『模型飛行機の理論と実際』を本屋で見つけて愛読する。この年ヴェデキントの『春の目ざめ』が野上豊一郎訳で刊行され、中学に入ってから愛読し、ピストル自殺した主人公モーリッツに共鳴する。
1914年 大正3年 神戸市の関西学院普通部に入学。一年のときの授業で「死刑の宣告を受けて銃の前に立ち、五分間の猶予を与えられた場合の気持ちを想像して書け」と言われて提出した作文が組で一番に選ばれた。教師の大半は西洋人であった。友人たちと『飛行画報』を発行。最初の創作は『或る少年の話』で次に書いたのは『小さなソフィスト』。飛行機のほかに博物学、ショーペンハウエルの哲学に熱中。講演部の委員長をつとめる。
1919年 大正8年 三月、関西学院を卒業。羽田穴守の日本自動車学校へ入学するために上京する。蒲田菖蒲園前に下宿する。六月、警視庁甲種自動車免許証を取得して明石に帰郷。神戸で友人らと複葉機(エルブリッジ40馬力装備)を製作する。飛行学校入学を志望していた。
1921年 大正10年 佐藤春夫の知遇を得て上京。上目黒の春夫の仮寓の離れに引越す。この年、第一回日本未来派美術展に『月の散文詩』を出品、入選する。
1922年 大正11年 『チョコレット』を『婦人公論』に発表。六月、渋谷道玄坂上に転居。『カイネ博士に依って語られしもの』を三科インデペンデントに出品。同会場にて横光利一を知る。十月、『星を造る人』を『婦人公論』に発表。
以上、高橋康雄編の『稲垣足穂年譜』から
1977年10月25日、結腸癌で死去。享年77歳。
放浪生活を送りながら、文壇とは遠いところで独自の小説を書いた。
キラキラ感、宇宙嗜好、少年愛、ヒコーキなど独特のイメージに富んだ作品で有名。
澁澤龍彦の『夢の宇宙誌』には冒頭に「わが魔道の先達、稲垣足穂氏に捧げる」という献辞あり。
作品 : 『稲垣足穂大全』現代思潮社刊から(抄)
佐藤春夫、辻潤、谷崎潤一郎、江戸川乱歩、吉田一穂、萩原朔太郎、丸山薫、三島由紀夫、草下英明、亀山巌、澁澤龍彦、種村季弘、加藤郁乎、中村宏、高橋睦郎、萩原幸子、稲垣志代、松岡正剛…その他いろいろ