神皇正統記。
南朝を正統とする歴史書。漢文、六巻。北畠親房著。1339年成立。1343年、改訂して後村上天皇に献上。 神代から当代に至るまでの天皇の事績、歴史の推移を独特の神国論に基づいて述べ、南朝の正統性を論じる。
続神皇正統記はその続篇と主張しているが、実は正反対な立場にある。
日御碕神社を染めるもの 出雲大社からくるまで15分あまり、県道29号を北に進むと朱色に塗られた見事な権現造の日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)に至る。現在の社殿は三代将軍、徳川家光の命により日光東照宮の…、 「いやあ、立派ですなあ。だいだい色、きれいわ。伏見稲荷と一緒や。」誰なんだ、行く手を阻むこのおやじ。大声で、ところかまわずに勘弁してほしい。 かかわらないで通り過ぎよう。「なあ、大将!」 つかまった。 「はあ…」 「わしな、前からここ、いっぺん来たい来たい思もてましたんや。ヨメがここえらい好きでなあ…。あっちがな、アマテラスまつってますねん。ほんでこっちがスサノオ。御存じでしたか。」 「いや…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 明治維新とは、日本を神武天皇の時代に戻す事であった。 慶応3年12月9日(1868 年1月3日) 王政復古の大号令「諸事神武創業ノ始ニ原ツキ」。 明治新政府は、「神武創業ノ始」に回帰する事を標榜して、日本を近代化して大陸戦争に勝利する軍国主義国家に改造すべく暴走した。 日本の近代化とは、平和の為ではなく戦争の為であった。 ・ ・ ・ 皇国史観・神国物語は、必然であった。 民族中心神話を基にした皇国史観・神国物語は、外敵から日本を守る為に創作された宗教的イデオロギー的自衛手段であった…
南北朝時代の出来事を年表にまとめた。 南北朝時代 は 日本の歴史の時代区分の一つである。 前は 鎌倉時代 後は 室町時代 広義の室町時代に含まれる。 南北朝時代の概要 南北朝時代の文化 南北朝の段階区分 南北朝時代の出来事 前史 1318年 (文保2年) 96代 後醍醐天皇 即位 1331年 (元弘 元年) 元弘の乱 1331年 (元弘 元年) 北朝 初代 光厳天皇 即位 1333年 (元弘3年) 後醍醐天皇 重祚 1333年 (元弘3年) 建武の新政 1334年 (建武元年) 二条河原落書 1335年(建武2年)中先代の乱 1336年(建武2年) 建武の乱 1336年 (建武3年) 建武式目…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 2024年1月15日 YAHOO!JAPANニュース「日本史上の重要人物〈神武天皇〉を、歴史学者はなぜ無視してきたのか? 『神武天皇の歴史学』外池昇氏に聞く 外池 昇成城大学教授 政治的に「右」か、「左」か。そんなことにこだわる時代は、もう終わったのではないだろうか。日本の歴史における天皇という存在、そしてその「初代」とされる神武天皇についても、戦後歴史学が積み上げてきた成果と方法によって研究すべき課題がたくさん残っているのではないか――。講談社選書メチエの新刊『神武天皇の歴史学』…
令和三年は、天孫紀元1795154年と云われても一般人には???でしょう。これは日本書紀の神武紀にある「皇祖皇考、乃神乃聖、積慶重暉、多歷年所。自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。」から計算された瓊瓊杵尊天孫降臨を紀元とする年号で、一部古史愛好家が使用する我が国独自の「紀元年」だそうです。 「一百七十九萬二千四百七十餘歲」は「謎の179万余年」と云われる暦年で、日本書紀以外では、『倭姫命世紀』『神祇譜伝図記』、北畠親房の『神皇正統記』、両部神道系の秘書『天地麗氣記』にも記述されている謎の暦年であって、これまで多くの学者文人を悩ませてきた数字です。かの本居宣長も上田秋成との論争にてこ…
こんにちは、くましね薫です。 今回は久々に宮﨑駿監督作品『千と千尋の神隠し』の考察をします。 kumashine369.hatenablog.com 前回は劇中に登場する「オクサレさま」の正体は、出雲族の神である「クナトノ大神」で、それは『もののけ姫』の「シシ神様」と同一神であると考察しました。 kumashine369.hatenablog.com 『千と千尋の神隠し』はとても難解なので、神話や古代史を勉強しながら謎が解けた時点で更新していきたいと思います。 私はこのブログでたびたび言及していますが、日本の本来の神は「龍神」「龍蛇神」であります。 龍神とは、川や海など水のあるところや、雨や稲…
愛子さま 担当記者は「まさか就職されるとは」と驚き…忘れてはならない“危機”も(2024年2月12日配信『デイリー新潮』) 紀宮さまを見習われたご公務への姿勢 4月から新たな道へ 天皇家の長女・愛子さまが3月に学習院大学を卒業した後、日本赤十字社に嘱託職員として就職されることを宮内庁が発表したが、担当記者の間では驚きが広がっている。 【写真特集】愛子さまの歩みを写真で振り返る 「愛子さまは2020年4月に学習院大学に入学したものの、当時はコロナ禍で入学式が中止になりました。コロナが落ち着き、昨年4月にようやくキャンパスライフが始まった。大学生活で失われた時間を取り戻すために、卒業後は大学院に進…
古事記の原本はみつかっていない。一方、現存する最古の写本は愛知県の大須観音にあるものとされる。なぜ原本がないのだろうか。次の流れで紹介していく。 ・古事記の原本・最古の写本は古事記の成立から約660年・南北朝時代・南北朝時代の1371 年~1372 年という時代・神皇正統記(じんのうしょうとうき)・まとめ ■古事記の原本古事記の原本はみつかっていない。現在あるのは写本である。 最古の写本は1371 年~1372 年のもの。 愛知県の大須観音、正式名称は北野山真福寺寶生院に伝わる真福寺本「古事記」が最古とされている。 大須観音はもともとは岐阜県羽島市大須にあった。 1324年に後醍醐天皇が長岡庄…
今回は十日戎(とおかえびす)に関連して取り上げる。十日戎の起源に迫る。次の流れで紹介していく。 ・十日戎(とおかえびす)・江戸時代の阪神地域のえびす講・鯛を持つエビスは古代に帰化した神・エビスはエル・今宮戎神社の由緒・西宮神社の御鎮座伝説・和田神社・元祖大師・御遺跡 ■十日戎(とおかえびす)毎年正月の10日に、恵比寿様に商売繁盛を祈願する神社のお祭り。 古くから海の神、商業、ご利益的な神として信仰を集めた。 室町時代にインドや中国から渡ってきた七福神と結びついて、現在の福の神としてまつられたと考えられている。 そのような中で「えびす講」という行事が生まれた。 商人の家ごとや同業者ごとに恵比寿様…
一条真也です。29日、ブログ「年越大祓式」で紹介した社内儀式を終えたわたしは、一年が無事であったお礼参りをするために、九州最北端に位置する北九州市門司区青浜の皇産霊神社(みむすびじんじゃ)を訪れました。 久々に皇産霊神社を訪れました 見晴らしが良くなり、海も一望できます! 皇産霊神社はサンレーグループの総守護神を祭る神社ですが、久々に訪れたらアップデートされていました。密林のようになっていた木々も伐採されて、見晴らしが良くなっており、境内から青浜の美しい海が一望できます。とても景観が良くなっており、デートスポットにも最適ではないでしょうか。もちろん、インスタ映えも最高です! 皇産霊神社の拝殿を…
歴史のことば劇場70 “日本人は水と安全はタダだと思っている” とは、イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人とユダヤ人』(1970)の有名な文句ですが、 同書は「日本人は常に自由であった」から「水と安全は無料と思っている」と述べています。 いわく、ユダヤ人が安全に高いコストをかけるのは、宗教的迫害を長く受けてきたからである。 彼らは江戸期の隠れ切支丹みたいなもので、常に迫害される危険があったが、 切支丹以外の日本人にそんな経験はない。 ユダヤ人にとって「城壁のない都市は、殻のないカキのようなもの」だが、 「個人の安全も一国一民族の安全保障も、原則は同じであろう。 しかし日本では、カキに果たして…
いわゆる「皇国史観」という言葉を聞くと、大東亜戦争での大敗という結果を招いた軍国主義体制を思想的・精神的に下支えしたイデオロギーであるとの条件反射を示す日本人は多いのではないだろうか。「皇国史観」という言葉が喚起するイメージは、まるで「悪」と同義であるかのようのである。だからこそ、本居宣長の 敷島の 大和心を 人とはば 朝日に匂ふ 山桜花 という歌に現れた国学の思想を「皇国史観」と結びつけて解する無知蒙昧を多く生み出しもしたのだろう。 予め結論を言うなら、平田篤胤の国学(平田派国学)とならば格別、いわゆる皇国史観と本居宣長の国学とは無関係である。そもそも、本居宣長が「史観」などというものを宣揚…
猪崎城跡から北上し、福知山市猪崎にある臨済宗の寺院、木塔山醍醐寺に赴いた。 木塔山醍醐寺 私が訪れた日は、境内の楓の紅葉が進んでいた。季節の移り変わりを感じた。 石垣と参道 醍醐寺は、興国二年(1341年)に、後醍醐天皇の菩提を弔うために、足利尊氏によって建てられた寺だという。 足利尊氏と後醍醐天皇は、南北朝時代に日本を二分して争った間柄である。その尊氏が、対立した後醍醐天皇の菩提を弔うために寺を建てたというのが、不思議に感ぜられる。 山門 四脚門の山門を過ぎると、正面に広壮な本堂がある。 醍醐寺には、福知山市指定文化財である三光国師像図、木造薬師如来坐像、醍醐寺額下書きという3つの文化財があ…
江戸時代の始まりを決定づけた関ヶ原の戦いがあったのは、1600年(慶長5年)の9月15日(今の暦では10月21日)。私たちは2年前(2021年)の11月に、合戦や陣屋の跡が観光史跡になり始めたこの関ヶ原に行ってきました。 入りは前泊をした大垣から。大垣は岐阜県(美濃)の内陸の方と京を結んでいた中山道の宿場町で、関ヶ原合戦の直前に石田三成が拠点としていた場所としても有名です。関ヶ原合戦は、西軍が東軍の西進を「防衛ライン」としての大垣で止める籠城戦にもなり得たところが、結果的に西軍が原に出たことで野戦になったんですよね。 この関ヶ原が何の「関」がある原だったかというと、不破の関。江戸時代が始まるま…