旧村名。北海道紋別郡白滝村。 網走支庁に属した。
人口:1,149人(平成17年3月末現在) 面積:342.96平方km(同上)
2005年10月1日に遠軽町、生田原町、丸瀬布町、白滝村の4町村で合併を行い、現在は遠軽町の一部。
石北本線が通る。「白滝」のつく駅名としては:
これは北海道、道の駅全駅制覇しても振興局単位のキャンプ地を制覇してもまだまだ北海道にはきちんと見ていない市町村が多いなぁと思った【たかさん】が道内市町村を巡るお話です。 1月22日(木) とりえず2/22(にゃんこの日)と言う事で、 我が家の「大吉」くんをご覧ください。 仕事終わりから出発の予定をして、帰宅後すぐ準備。旅やキャンプには忘れ物が付き物って事で入念に準備していざ出発 今回、仮眠場所に選んだのは「道の駅まるせっぷ」 紋別郡遠軽町丸瀬布元町42-2(国道333号沿い) 住所で歴然ですが今は遠軽町。 自分の知る限りでは元々「丸瀬布町」でした。 旭川紋別道も丸瀬布までしか開通してなくて、そ…
郡は以前は町や村を含む自治体となっていましたが、1923年郡制が廃止されて以来、郡の存在意義はなく、地理的区分としてのみ存在しているようです。郡の廃置分合は、都道府県知事が権限を持ち、都道府県の議会の議決を経て定め、総務大臣に届け出ることとなっています。また、郡に市や区は属さないため、町村に市制が施行されると、その範囲は郡域から除かれます。そのため、市の増加・拡大に伴い多くの郡が消滅しました。北海道でも市町村の統廃合などを繰り返し、いくつかの郡は消滅しています。ここでは1947(昭和22)年の地方自治法施行当時にあった郡以降について調べてみました。 ※個人で調べています。もし間違いがある場合は…
今回は遠軽町です。2005年に当時の遠軽町と生田原町、丸瀬布町、白滝村が合併して今の形になりました。人口約18000人の町で、道央と紋別・北見・網走をつなぐ交通の要所として栄え、商業の他、農業・林業が主な産業です。 最近いくつか話題になったことがあり、ここで紹介してゆきます。まずひとつがこちら道の駅遠軽森のオホーツクです。もともと道の駅まるせっぷ、道の駅しらたきがありましたが、令和元年12月にオープンしました。スキー場に面した道の駅であり、ロッジをかねています。 なんと冬以外には敷地を利用してジップラインが楽しめます。最高時速70km/h、全長1135mもあります。リフトなどで山頂へ(この日は…
北海道遠軽町に合併された旧白滝(しらたき)村に行ってきたよ! 旧白滝村カントリーサインマグネット 1.旧白滝村の概要 2005年,近隣の生田原(いくたはら)町,遠軽町,丸瀬布町と合併し,現在の遠軽町になった。実は1946年8月1日に紋別郡遠軽町から白滝村とともに丸瀬布村として分村した歴史があり,先の市町村合併も一度分かれたものたちが再び集結したといってもよい。(ここの説明は前回の遠軽町と同じ) 町名の由来は,湧別川の滝。水しぶきで滝つぼや岩肌が白く見えるので白滝という名が,いつとはなしに地名となった(本多 1999)。 現在は白滝発祥の地として碑がたてられている。 町の中心を流れる湧別川と支流…
北海道遠軽町に合併された旧丸瀬布(まるせっぷ)町に行ってきたよ!。 1.旧丸瀬布町の概要 2.道の駅 参考文献 旧丸瀬布町カントリーサインマグネット 1.旧丸瀬布町の概要 2005年,近隣の生田原(いくたはら)町・遠軽(えんがる)町・白滝(しらたき)村と合併し,現在の遠軽町となった。実は1946年8月1日に紋別郡遠軽町から白滝村とともに丸瀬布村として分村した歴史があり,先の市町村合併も一度分かれたものたちが再び集結したといってもよい。 町名の由来は,アイヌ語の「マウ・レ・セプ」(3つの川の集まる広い所)からきている(本多 1999)。 かねてから林業が盛んな地域で,昭和初期には森林鉄道「武利意…
皆さん おはようございます。 まず最初に7月9日のぶらり旅が11日報告になったことをお詫び申し上げます。今まで二十数℃せいぜい30℃程度の気温が最高気温34℃の世界になった事と、その気温の中色々の施設を歩き回ったせいか?昨夜はブログ作成の体力が残って無く、1日遅れとなってしまいました。無理せずブログ作成を続ける予定ですので、よろしくお願いします。 遠軽町は平成の大合併で元の遠軽町・白滝村・丸瀬布町・生田原町の4町村が合併した比較的大きな町です。黒曜石の露頭などでジオパークの指定を受けた「旧白滝村」から 『白滝ジオパーク交流センター』 正面玄関前の柱に注目。柱には黒曜石が貼り付けられています。 …
今日は最後の話、「村はみんなの「まぼろし」ー(石北本線・奥白滝信号場)」 いわゆる「平成の大合併」。 形としては対等な「合併」という立場をとりながらも、 実質は大が小を飲みこむ「吸収」に近く、近隣のより大きな町といっしょにされ、 いとも簡単に消え去った白滝村の無念。 「(「住民投票」を行い合併の是非を問うことは、小さい村にとっては村を二分する危険がある。 それでも村の地方自治を護ろうとする住民もいた) 確かに、間接民主制(議会制民主主義)においては、選挙で選ばれた首長や議員に、 行政や政治をまかせるというのが原則である。 そして、本来は彼らがすべき判断を、住民に丸投げするがごとき住民投票は、議…
白滝の旧石器時代の黒曜石が正式に国宝に指定されたと報道があった。最古の国宝となるのだそうだ。3万年~1万5千年、その頃に「日本」はなく、住んでいる人に「日本人」という意識もなかったろうし、そもそも北海道は島ではなく樺太と地続きの氷河期の頃の遺物。日本の!と言うよりは人類史において重要に見える。このスケッチは14年程前に江別の埋蔵文化財センターで描いたもの。本物は白滝の遠軽町埋蔵文化財センターにある。混じり気のないガラスのような石を加工し作られた当時の道具は既に「作品」のような美しさがある。黒曜石は何処にでもあるわけではない。それが質の良いものとなれば場所は限定される。当時の人は既に地質学的な理…
白滝村立三和小学校跡を訪ねてみた。 現在も遠軽町の避難場所としてその名前が残っている。 国道からもすぐのところに石碑があった。 三和小・中学校跡とあるので併設校だったんだね。 石碑の裏側には沿革。 白滝村の学校跡にある石碑は情報量も多くて なにより見やすくていいね。 道を進んでいくと校門が見えてきた。 校門には村立白滝三和中小学校の表札。 小より中が先に来るのって珍しいね。 校舎跡はすごく小ぶりな感じ。 サッシの窓や戸板はリフォームされている感じ。 裏手にはモルタルに包まれた体育館も残っていた。 窓を覗くと校歌の書いてある板も見えた。 撮影してみたらピンボケで全く見られる感じじゃなかったので …
白滝村立白滝小学校跡をたずねてみた。 場所は廃駅となってしまった旧白滝駅のそば。 道路っぷちに残っていた丸太はきっと校門。 前庭には旧白滝小学校跡の石碑があった。 ちょっとややこしいが白滝村は 1946(昭和21)年に遠軽町から丸瀬布村とともに分村して白滝村となり、 2005(平成17)年に遠軽町、生田原町、丸瀬布町と合併して遠軽町となっている。 現在、白滝駅のある旧白滝村市街地には 遠軽町立白滝小学校(開校時は白滝村立)がある。 こちらの白滝小学校は1976(昭和51)年に開校となっている。 そのあたりも踏まえて旧白滝小学校跡という表記なのかなって思ったんだけど。 石碑の裏側には沿革があった…
生田原町立清里小学校跡を訪ねてみた。 いきなりあったのは古い校門。 校門についていた石板。 どうしてこの色にしたんだろうってくらい字が読みにくい。 紀元二千六百年記念と書かれているのは何となく分かる。 撮影時にちゃんと確認しておけば良かったな。 こっちは新しい方の校門だと思われる。 左側には清里小学校の表札。 小学校の「学」の字は旧字体だね。 もう片方にはキララン清里 生田原 宿泊研修施設とある。 生田原と宿泊の文字の間が消されているけど ここは町の字が入っていたんだろうね。 ちなみに生田原町は2005(平成17)年に遠軽町、丸瀬布町、白滝村と合併し 遠軽町になっている。 校舎全景。 と思うん…
網走行き特急「大雪 3 号」は石北トンネルを通過して遠軽町に入りました(「オホーツク総合振興局」に戻ってきました!)。かつての白滝村のエリアです。 そういえば普通列車から特急列車に乗り換えた筈ですが、まるで各駅停車のようなペースで記事が進んでいますね……(汗)。 【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。 トンネルを抜けて坂を駆け下りる途中に踏切らしき場所を見かけました。林道にしてはなかなか立派な道だなぁ……などと思ったのですが、Google マップを見るとどうやら北見峠(国道 333 号)の旧道っぽい感じですね。
" data-en-clipboard="true">俺は記憶力が良い。そのおかげで学校ではずっと成績が良かった。 " data-en-clipboard="true">大学入試は記憶力が良ければ高い点数を取ることができる。少なくとも5年前の大学入試はそうだった。 それで京都大学に入学した。行けるところの中で一番良い大学に行こうとしか思っていなかった。 中学の時にロックミュージックが好きになった。高校では曲を作り始めてバンドを組んでライブをした。将来は音楽で飯を食っていくはずだった。どうしてもそれが叶わない時のために良い大学に行っておく必要があった。食い扶持があるだろうから。 大学で研究したい…