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畠山義就

(社会)
はたけやまよしひろ

畠山義就(永享9〈1437〉年−延徳2(1490)年)
畠山持国の嫡子として生まれる。足利義政の寵愛を受け、偏諱を受けて義夏と名乗る。後に義就と改名する。
持国には実子がおらず、弟の畠山持富を後継者としていたが、義就の誕生を受けて文安5(1448)年には持富の家督継承を取り消し、義就を後継者とする。義就の家督継承に反発する畠山氏の被官神保氏らは宝徳4(1452)年に死去した持富の遺児弥三郎を立てて持国・義就に対抗する。持国は神保父子を誅殺するが、畠山被官の反発を買い、さらに細川勝元・山名持豊(宗全)も弥三郎を支持し、義政も弥三郎を家督継承者と認めるが、なおも反発する山名持豊を領国但馬に追い、義就は復活し、弥三郎が逃走する。
享徳4(1455)年に持国が死去し、義就が畠山家の家督を継承し、さらに弥三郎も長禄3(1459)年に死去するが、弥三郎派は弥三郎の弟畠山政長を立ててなおも抵抗する。義就は義政の上意を詐称して義政から疎まれるようになり、義政は義就から畠山家家督を取り上げ、政長を畠山家家督に据える。義就は領国の河内国に下り、徹底抗戦の姿勢を示し、寛正4(1463)年に義就のこもっていた嶽山城が落城し、義就は吉野へ没落する。
文正元(1466)年には細川勝元と赤松家再興をめぐって対立した山名宗全の支持を受けて上京し、政長を失脚させる。翌応仁元(1467)年正月に上御霊社で政長と義就の武力衝突を機会に応仁の乱が勃発する。
義就は一貫して宗全の率いる西軍に属し、勝元の率いる東軍と戦った。応仁の乱の終結後も政長と戦い、主戦場となった南山城では文明17(1485)年に国人によって山城国からの退去を要求される(山城国一揆)。
延徳2(1490)年に病死、一説には病魔に冒され自害したと伝えられる。

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