界橋の戦い(かいきょうのたたかい)
192年に公孫瓚と袁紹の間で起こった戦争。
弟の公孫越が死亡し、復讐に燃える公孫瓚は192年4月。界橋で激突した。最初、公孫瓚が得意の騎馬隊で袁紹軍を壊滅させる。勢いに乗った公孫瓚は追撃を開始するが、麴義により厳綱は討たれ、騎馬隊は壊滅状態に陥る。これにより袁紹軍が反撃にでる。命からがら公孫瓚は趙雲、劉備等の活躍により後方に逃げ延びた。
この度、出店者として文学フリマ大阪へ参加いたします。
この度、8/27(日)に開催される「TOKYO FES Aug.2023」内の三国志全般オンリーイベント「雲蒸竜変の盟10」にサークル参加します。
山東諸侯が挙兵した時、兗州の東郡太守は橋瑁であった。その橋瑁は不仲であった兗州刺史の劉岱に殺害される。191年、董卓が長安に撤兵することにより団結するための脅威を失った山東諸侯は豫州刺史の孔伷の後任をめぐって内紛を始める。おそらく橋瑁が殺害されたのも同時期だろう。後任は王肱なる人物で、劉岱の配下であろうか。 同年の冬であろうか、黒山賊が魏郡、東郡を荒らすと、袁紹は曹操を東郡太守に任命し、東武陽を治めさせた。このあと曹操は192年の春にかけて黒山賊を平定するのだが、最初に根拠地とした東武陽とは黄河北岸の県である。 私のように三国志のゲームなどに触れた者は誤解しそうなことだが、後漢における東郡は、…