慶応4年、近藤勇が天領である甲州で官軍を迎え撃つ為に江戸で編成した部隊の名称。 新撰組の残存兵力と江戸で集めた新規兵力からなる混成部隊。 人員は200人弱。大砲を二門装備。 近藤は甲府城での籠城戦を企図していたが、多摩での鎮撫隊の歓迎や残雪のぬかるみなどで行軍が遅れ、甲府城を板垣退助率いる官軍別働隊に占拠されて甲府盆地外縁部の勝沼に布陣を余儀なくされる。 結局、柏尾で官軍と野戦を強いられて部隊は壊滅。江戸方面へ敗走した。
「光秀のスマホ」の続編「土方のスマホ」 前作「光秀のスマホ」から続く人気番組、◯◯のスマホシリーズ「土方のスマホ」。 「光秀のスマホ」の時は明智光秀、ひいては織田信長の歴史のわりと有名エピソードを拾い上げていた。 足利義昭上洛や金ヶ崎撤退戦は二人の関係性を語る上で重要なエピソードといえるだろう。 また秀吉との出世争いなど教科書にも載っていそうなエピソードばかりだったので、仮に歴史に疎くても十分楽しめたと思う。 少しだけマニアックなエピソードといえば松永久秀所有の名物茶器・平蜘蛛のクダリくらいだろうか。 あとはそれぞれのあだ名くらいか。 明智光秀はキンカン頭と呼ばれていたらしいし、羽柴秀吉(豊臣…
武田信玄の居城として知られる躑躅ヶ崎館の南、甲府盆地北部の一条小山に築かれた城で、山の名から一条小山城とも呼ばれたほか、甲斐府中城、赤甲城、舞鶴城という別名がある。 城のある一条小山には、古くは武田氏の初代である武田信義の嫡男一条忠頼が居館を構えていたという。 忠頼は、源平の争乱において、甲斐源氏の有力武将として活躍したものの、争乱の決着がつく前に、頼朝陣営内の政治的争いから元暦元年(1184)に頼朝に暗殺されてしまうのだが、この居館跡の一条小山には、忠頼夫人によって尼寺が建立され、やがて時宗の一連寺となった。また、躑躅ヶ館の築城後は、城下町南端の守りとして砦も置かれていたという。 甲府城の築…
「新選組」についてはこれまで、司馬遼太郎、池波正太郎の作品を紹介している。これらはいずれも小説だが、本書は1928年に作家子母澤寛が発表した実録である。作者は本書に続き「新選組異聞」「新選組物語」を発表、「新選組三部作」とした。この時代には、幕末の経験者が生きていたり、口伝が遺されていたりした。作者は、巷間の噂・俗説を追い、実際に事件があった場所を訪れてもいる。 実際に新選組に所属していた人物として、 ・永倉新八 試衛館以来の近藤勇の腹心、副長助勤、二番隊隊長 ・篠原泰之進 諸士取調役、柔術師範、伊東甲子太郎と共に御陵衛士として分離 ・島田魁 伍長、土方歳三に従い函館まで従軍 などの口伝が本書…
序文・甲斐源氏家臣の末裔 堀口尚次 板垣退助、天保8年 - 大正8年は、日本の政治家、軍人〈土佐藩陸軍総督〉、武士〈土佐藩士〉。従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。東アジアで初となる帝国議会を樹立し「国会を創った男」として知られる。伊藤博文、大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の一人。また、常に国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。神道」の立場から理神論を唱えた。 退助は朝廷より東山道先鋒総督府参謀に任ぜられ、京都を出発し東山道を進軍した。この京都を出発した日が乾(いぬい)退助の12代前の先祖・板垣信方(もぶかた)の320年目の命日にあたる為、幕府直轄領である甲府城…
序文・14歳で新選組に入隊した若者 堀口尚次 岐阜新聞に『土方歳三の遺品届けた新選組隊士「市村鉄之助」岐阜・大垣市に眠る 時代の波に翻弄された19年』の記事をみた。そこで調べてみた。 市村鉄之助〈安政元年 - 明治6年?/明治10年?〉は、新選組隊士。安政元年、美濃大垣藩士・市村半右衛門の三男として生まれる。安政5年、父が藩より追放され、親類のいる近江国国友村〈現滋賀県長浜市〉で育った。慶応3年の新選組の隊士募集で兄の辰之助と共に14歳で入隊。辰之助は両長抱として、鉄之助は土方歳三附属を命じられた。その後、隊士全員が江戸幕府直参に取り立てられ幕臣の身分となる。 慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いに…
・板橋刑場 ①文庫版『下』43~60頁「中山道と岩槻街道」は45頁~「一 巣鴨界わい」49頁5行め~「二 板橋宿と川越街道」55頁5行め~「三 岩槻街道」の3節、その「二」節めは49頁6行め「板 橋 宿」51頁~「志村一里塚*1」52頁9行め~「松月院と赤塚城跡*2」53頁15行め~「茂 呂 遺 跡*3」の4項、板橋刑場については「板 橋 宿」の項の最後の段落(50頁13~18行め)の冒頭、 板橋駅北区側出口、板橋宿入口にあたるところに近藤勇と土方歳三の墓碑がある。ここは勇が/一八六八(明治元)年四月斬首された板橋刑場のあたりだ。‥‥*4 と「宿」の「入口」なのだから「散歩」の順序からしても「…
序文・新選組~甲州鎮部隊 堀口尚次 近藤勇、天保5年- 慶應4年は、江戸時代末期の武士。新選組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。勇は通称で、諱は昌宜(まさよし)。慶應4年からは大久保剛を名乗り、後にさらに大久保大和と改めた。 天保5年、武蔵国多摩郡上石原村に百姓・宮川久次郎と母みよの三男として生まれる。幼名は勝五郎、後に勝太と改める。天保9年の上石原村の宗門人別改帳に拠れば、宮川家は多摩郡大沢村の龍源寺の檀家で、高七石一升二合の6人家族。石高から中流クラスの上層の家庭環境であったと判断される。 嘉永元年、勝五郎は江戸牛込に所在する天然理心流剣術道場・試衛場に入門する。翌嘉永2年には…
実録山田 作者:山田 孝之 ワニブックス Amazon 10月26日の視聴 ・『土方のスマホ 正月の陣』 →これ、見逃してたやつかな…? ※2022年8月24日に再放送してたやつ →本編⇩が5分×6話で正味30分のはずなのに、45分くらいあるのは、なんか色々追加されてる、ということか。 【2021年『10月18日の視聴』→https://moritsin.hatenablog.com/entry/20211029/1635513222】 →近藤勇が山田孝之なのよね。 →【第1章 武士だぜ!今日から俺は!!】タイトルが某映画監督を想像させる…。そして清水寺でなにやってんだ。 →土方のbio、「#…
昨夜、TVニュースを見ていたら「京都の京都三大祭のひとつ時代祭が盛大に行われました」と、千余年の各時代の衣裳をまとった時代風俗行列の映像が流れていた。 実は、我が町・町田でも15年前程から「町田時代祭り」というのを町田市の秋の行事のひとつとしてやっていて、京都の「時代祭」と同じ、昨日の日曜日だった。 町田は、鎌倉幕府の置かれた鎌倉と、武蔵の国府である府中を結ぶ「鎌倉街道」が縦貫していることで、鎌倉幕府の有力な御家人がいたり、各地にいろいろと歴史的興味のある話が残っている。 さらに、我が家から車で15分ほどの小野路というところは、新選組に縁が深く、近藤勇や土方歳三、沖田総司らが、新選組結成以前に…
『多賀神社は、938年(天慶元年)、武蔵介に任ぜられ、武蔵国に赴任した源経基が、国土豊穣、万世安穏を祈願する為、近江国の多賀大社から分祀し、現在地に勧請したと伝えられている。その後、1260年(文応元年)、幕府の権力者である北条時頼が国内巡行の折、この地で病に倒れたため、この多賀神社に古鏡一面を奉納して祈願したところ、病が治癒したことから、社領七反歩が寄進され、祈願所としたと伝えられている。 御祭神は国土創造の神である伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神を主祭神として祀っている。伊弉諾尊と伊弉冉尊は、夫婦神として我が国初めての神様で、伊勢神宮御祭神の天照大神を産んだ神であり、良縁成就、子孫繁栄のほか、家内…
調布市×PayPayキャンペーン7/1~開催中! ということでやはり調布市を多めに宣伝していかねばなるまい。 前回は市境なので端の方でしたが mori-soba1868.hatenablog.com 今度は京王線の西調布駅からもすぐ! こちらにも新選組の近藤勇のゆかりの地があります。 西光寺(仁王門) ご立派な仁王門ですが文化財にも指定されております。 これは撮ってたのに本堂は撮ってなかった謎。 写真右の方にちらっと見えるのが本堂です。 そしてこちらの西光寺にも近藤勇の像があります。 胸像から座像にランクアップ!?「誠」もついちゃったりしてわかりやすい。 西光寺の説明版。 甲府に向けて出陣する…
いよいよベスト5の発表! ここまでくれば剣技は皆互角、勝負を分かつは、勝利への美学と矜持のみ さぁ御賞味あれ 第五位 沖田総司(そうじ) 戦国にも勝る動乱期であった幕末に誕生した剣客集団が新撰組である。中でも新撰組一番組組長は新撰組内で一番の使い手が抜擢される習わしであった。その一番組組長を誰にも譲らず逝った男が、沖田総司である。この一事でも沖田の剣の天禀が窺い知れる。 その出自は陸奥白河藩の武士、沖田勝次郎の長男として生まれた。母に関しては詳細不明。父勝次郎も総司三歳の時死去。天涯孤独の総司が、どのような経緯か、江戸市ヶ谷、天然理心流・試衛館の内弟子となったのがわずか九歳の時だった。総司が秘…