甲賀衆について 天正二年、織田信長に屈服、従属した甲賀衆は、その後、織田軍に従軍して西国を転戦した。 そして、豊臣政権が成立すると、引き続き、秀吉に仕え活動した。 小牧・長久手合戦の際に、甲賀衆は千人が従軍している。 ところが、天正十三年、秀吉は紀州雑賀(さいか)攻撃を終えると、太田城の水攻めの時に、甲賀衆の持ち場が決壊した失態の責任を問い、二十人の甲賀衆を改易(かいえき)処分とし、所領を没収、追放とした。 さらに同年、甲賀を支配した水口(みなくち)岡山城主中村一氏(なかむらかずうじ)により、他の甲賀の武士たちも、所領を奪われた。 こうした一連の事態は、「甲賀ゆれ」などと呼ばれ、永く記憶された…