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物部守屋

(読書)
もののべのもりや

物部守屋
日本書紀』に排仏を主張したとあるため、日蓮宗などの仏教宗派では悪人の代表とされることもある。

略伝

物部尾輿の子。
敏達天皇・用明天皇の頃、大連をお務む。
排仏を主張して蘇我馬子と対立する事として有名だが、実は当時物部氏の封地内にも寺がおる。案ずる、物部氏の職務の一つは鎮魂であることから察すると、神道の主体にあたる天皇(用明天皇)が自ら仏を信仰したいこと*1を言わなければ、そこまで排仏する*2つもりがないかもしれない。

物部守屋と中臣勝海連しか崇神するつもりがないという時政の不利、また押坂部史毛屎に「既に蘇我馬子等が圖り、物部守屋大連を害せんと欲する」と聞き、而して阿都適き、これを避く。

用明天皇死後、蘇我馬子が泊瀬部皇子・竹田皇子・聖徳太子・難波皇子・春日皇子・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拖夫・葛城臣烏那羅らを連合して、政敵である物部守屋を倒おうと提案す。参加者には大伴連嚙・阿倍臣人・平群臣神手・阪本臣糠手・春日臣など。

七月七日、蘇我馬子皇子と謀り兵を將い、守屋を稻城に攻む。守屋が朴樹の上に坐して射る、家衆の皆が死闘すが、守屋が迹見赤檮に射殺されるため、妻・子が皆害に遭う、物部の餘衆も潰散す。原始神道もこれまで亡くなったという。

物部守屋公追慕文集には、守屋を「忠誠」、「神威」、「愈見」として評す。


なお、物部守屋が討滅された故、蘇我氏の権利が絶大になった、最後は崇峻天皇や聖徳太子の子の山背大兄王を弑すことに至った。

参考


物部守屋公は、建国の功臣・饒速日命の裔にして、代々宮廷を守護し武を司る家門に生れ給ひ、往古の八尾を中心とする河内一帯の地は其の所領たりき。
我国に始めて仏教渡来するや、国風たる神ながらの道統を護持せんと、父公・尾輿の固き志を継ぎ、用明天皇二年、何ぞ国神に背き他神を敬せんやと断じ、蘇我馬子と激しく対立。公は河内に帰り、一族を挙り此の地に干戈を交えて幾度か勇戦奮闘せられしも、時に利あらず、同年七月七日、遂に果敢くも陳歿せられぬ。
嗚呼、然れとも公の純乎たる憂国の精神は永く日本人の道を照さずてあるべき。春風秋雨幾星霜。
当墓所は今日八尾市の史蹟として最古の墳墓たるのみかは、遠く郷土の領主としてとして其の遺徳を仰ぎつつ、大正九年より吾等先輩祀職、年毎に墓所を修め来りて愈々懇なり。今年一千三百八十年祭を迎ふるに際り、茲に年来の司祭を記念し碑を建て聊か黄泉の英雄を慰め奉ると云爾。
昭和四十二年六月吉辰 大阪府神社庁中河内分会建之


物部守屋公顕彰碑より

物部氏の滅亡と共に、日本の古神道と古典籍の大半が散亡になった。


守屋、朴樹の上に坐して射る。家衆皆、死闘す。皇子、進で兵を圍み攻む。
守屋、迹見赤檮の射殺する所と爲る。妻・子、咸、害に遭う。餘衆、潰散す。
世に傅う。大連が家、多く本邦の古典籍を藏す。是の時散亡殆ど盡くと。後學嘆惜す。

日本国史略より

*1:皇統が亡くなると等しい

*2:何ぞ本國神を舎て而して蕃神を敬うや、と。

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