随筆家、アイルランド文学翻訳家、歌人。1878〜1957。 明治11年東京麻布に生まれる。東洋英和女学校卒。十八歳より佐佐木信綱に師事。大正初めよりアイルランド文学に親しみ、松村みね子の筆名でシング、ショウなどを翻訳。その才覚は、芥川龍之介に「才力の上にも格闘出来る女」(「或阿呆の一生」)と目され、「聖家族」「物語の女」など、堀辰雄の小説世界にも影響を与えた
テリトリー、外、内、辺境 辺境に身を置いた人たち 言葉は外と内から辺境へとやって来る 辺境としての自分 夢の言葉、言葉の夢 テリトリー、外、内、辺境 昔の話です。 「仏文学は澁澤龍彦、独文学は種村季弘(たねむらすえひろ)、英文学は由良君美(ゆらきみよし)」――そんなふうに、一部の人たちが口にしていた時期がありました。三人に共通するのは、博覧強記というところでしょうか。在野、アカデミックな場と、身を置く場所は違いましたが、それぞれが持ち味を生かしながら、いいお仕事をなさっていました。 澁澤龍彦 - Wikipedia 種村季弘 - Wikipedia 三人のなかでは、由良君美がいちばん一般的な知…
現在、千駄木団子坂上の森鷗外記念館では、『千駄木の鴎外と漱石~二人の交流と作品を歩く』展開催中です。 明治を代表する二大文豪、森鷗外と夏目漱石。 二人が実際に会ったのはほんの数回でしたが、互いに意識し合い、才能を認め合い、自著を贈るやり取りや、そのお礼の手紙のやり取りなどの交流は、細やかにあったそうです。 また期を異にして、偶然にも二人が住んだ千駄木58番地の家、通称「猫の家」(漱石がこの家でデビュー作「吾輩は猫である」を書いたことからこう呼ばれる。詳しくはこちら↓)や、 masapn2.hatenablog.jp 千駄木を舞台にしたそれぞれ小説、その登場人物らの交錯から、二人の関わりをこの展…
とぼしい情操なれど(僕なりの鑑賞)草も日もひとつ寂しさのこの野はらに生きたる人もまじらんとする 片山広子 野原の草も、差している日の光も、自分以外には誰一人いない寂しさでしょうか・・・・・。 そこに、少なくとも自分一人は溶け込もうとしている・・・・・。 そんな感じなんでしょうか・・・・・。
とぼしい情操なれど(僕なりの鑑賞)雨とほくすぎ日のすきとほる草丘はいちめんにほそきすすきの穂ばかり 片山広子 雨はやんでしまって、草の丘には清々しい秋の日の光が差してきている。 そこらじゅう一面には、穂の出た薄ばかりだ・・・・・。
とぼしい情操なれど(僕なりの鑑賞)のぼり来し山のたひらにとんぼ飛ぶ谿にも山にも黄いろき日のひかり 片山広子 登ってきた山の平らなところにはトンボが飛んでいて、谷や山にも黄色い日の光が差している、といったことなんでしょうか・・・・・。 再度取り組んでみましたが、これ以上には味わえません・・・・・。
とぼしい情操なれど(僕なりの鑑賞)草も日もひとつ寂しさのこの野はらに生きたる人もまじらんとする 片山広子 この方のお歌は、僕にはどうしても情景がつかめません。 いかに情操が乏しいかの現われだと思われます。 物音ひとつたたない野はら、そこにしんしんと秋の日が降りそそいでいるというしみいるようなしずけさ、そういう、野原のただなかにいて、その寂しさにひたっていると、生きのいのちの脈動を保っているはずの人間さえも、その空しい寂しさの中にひといろにとけこんでしまいそうになる、と味わえるのだそうです。
とぼしい情操なれど(僕なりの鑑賞)雨とほくすぎ日のすきとほる草丘はいちめんにほそきすすきの穂ばかり 片山広子 申し訳ないことですが、この歌も、情景がまったくつかめませんでした。 どうやら、雨が去って、日が差しているんですねえ。 その、空気の澄んだ草の丘には、すすきの穂ばかりがいっぱいだ。といったことのようです。
とぼしい情操なれど(僕なりの鑑賞)のぼり来し山のたひらにとんぼ飛ぶ谿にも山にも黄いろき日のひかり 片山広子 申し訳なかったのですが、この歌の情景が、まったくつかめませんでした。 自分の情操の乏しさが残念に思われるばかりです。 後で調べてみましたところ、登ってきた山の平らなところに無数のトンボが飛び交っている、それだけではない、谷にも山にも・・・・・。 それらのトンボの翅に反射した黄色い日の光が辺りを埋め尽くしている・・・・・。 といった情景なんだそうです。
中津の宝蔵寺で、母の3回忌をとり行った。 夜は、3兄弟妹の夫婦と、お世話になった三原さん、後藤さんと、鬼太郎で食事会。 ー➖➖➖➖➖ 「名言との対話」5月28日。堀辰雄「自分の先生の仕事を模倣しないで、その仕事を終わったところから出発するもののみが、真の弟子であるだろう」 堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)12月28日 - 1953年(昭和28年)5月28日)は、小説家。 一高時代には、師事した室生犀星に芥川龍之介を紹介してもらう。そして師と仰いだ芥川から次のような書簡をもらっている。「私は安心してあなたと芸術の話のできる気がしました」。「なお私の所感にある本で読みたい本があれば…