源義朝の六男。蒲冠者。三河守。 治承四年(1180)、異母兄頼朝のもとに参陣。寿永三年(1183)、異母弟義経とともに頼朝の代官として上洛し、木曽義仲を追討。一ノ谷の戦いでは大手軍の大将を務め、さらには山陽道から九州へと兵站に苦しみながらも転戦を続けた。平家滅亡後は九州に留まり、現地の政務を取り仕切った。 建久四年(1193)、曾我兄弟仇討の際の発言が頼朝の嫌疑を受けて伊豆修禅寺に幽閉された。その後確かなことは不明であるが、誅殺されたとみられている。
龍泉寺という名前のお寺はあちこちにあります。 浜松市にも有名なものは2つあって、そのうちの一つは、浜松医科大学の近くにある半田山龍泉寺で、三方原の合戦敗走した家康が、その阿弥陀堂に隠れたという話が伝わることで知られています。また、静岡市のJR静岡駅近くにある宝台院は、家康の別妻であった西郷局(お愛の方)の菩提寺として知られ、15代将軍慶喜が蟄居した地として知られていますが、以前は龍泉寺と呼ばれていました。 浜松市南区にある龍泉寺は、源範頼の別荘地で、京の稲荷神社からの稲荷明神を祀っていましたが、源範頼の死後、1254年に寺となり稲荷山龍泉寺となりました。範頼の供養塔があります。また「ニュートン…
先日の記事で紹介した横浜市歴史博物館で開催されている企画展『追憶のサムライ』展に行ってきました。 天気は少し曇り気味でしたが丁度良い気温で行ってこれました。 今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に絡めた関連企画展で、特にタイトルの”サムライ”という大きなくくりの中でもドラマでも活躍した畠山重忠や中世の武士をメインに押し出した内容になっていました。 なぜ横浜市と畠山重忠なのか? 畠山重忠は武蔵野国畠山庄(現在の埼玉県深谷市)の領地を構えているのですが、北条の謀略により横浜市旭区の二俣川で鎌倉方と交戦することになり、命を落とすことになります。そのため二俣川近辺には重忠にまつわるゆかりの地名やお寺など…
壇ノ浦決戦を前に源範頼・義経が戦勝祈願のために訪れた神社を参拝してきました。 (壇ノ浦を前に源氏の勝利を祈願) 源平合戦の最終章・壇ノ浦の戦い。1185年3月に行われたこの合戦を前に、鎌倉方の大将であった源範頼と副将の源義経の兄弟が参詣し、重藤弓と鏑矢を奉献して戦いの必勝を祈願した神社があります。 関門海峡・壇ノ浦の九州側、福岡県北九州市門司区にある甲宗八幡宮です。この神社は平安時代の860年に創建されています。 【壇ノ浦の戦いに関しては下をクリックしてどうぞ】 壇ノ浦の合戦の壁画があります。 そして戦いに勝利した後には、その御礼として範頼・義経が社殿を新たに造営した、との記録が社伝に残ってい…
どうも、つい先日八景島シーパラダイスで『IDOLY PRIDE』というコンテンツのミニイベントがやっていたので、八景島周辺の史跡巡りを兼ねて金沢区に行きました。 前日に下半身トレをみっちりやったせいで筋肉痛が発動、今回は車での移動でしたがかなり身体にきてやばかった。
YouTubeの鎌倉殿解説に相変わらずはまっています NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は7/31に29回「ままならぬ玉」が放送された。「玉」とは、古井戸へと落ちて行った蹴鞠の玉(たま)を直接には指しているのだろうけれど、オープニングで描かれている蹴鞠の玉は「権力の象徴」らしいので、扱いにくく転がっていく権力を頼家がつかみ切れない様がサブタイトルになっていたのか。 とはいえ、頼家はもがきながらも少し成長した。もう蹴鞠には逃げないそうだし(逃げている自覚があったんだね)、頼家を信じようとぶつかってきた比企家の「せつ」の言葉に心動かされ、彼女が産んだ一幡を嫡男にすると決めたと義時に言っていたし。 …
今回のテーマは梶原景時のチクリ魔伝説と義経との逆櫓論争についてです。 果たして本当に景時は鎌倉一のチクリ魔だったのでしょうか? また義経との諍いが頼朝との兄弟喧嘩につながったのでしょうか? チクリ魔伝説 やがて頼朝が東国を制すると、文武両道の景時は珍重されます。 和歌にも精通し、教養も高いし、弁も立つ、「コイツ朝廷交渉にも使えるな」という頼朝のスケベ心もあったのかも知れません。 しかも文官としても実務能力は高いわ、弓矢・剣術においても類い稀な才で、大谷翔平をも真っ青の100年に1人のユーティリティプレイヤーでした。 ところが重用されれば、されるほど♪嫌われても歳をとってもやめられない♪とチクリ…
善児に育てられる娘、トウちゃん登場 本日、あと少しで「鎌倉殿の13人」の第25回が始まるというのだから、先週の24回「変わらぬ人」のことを今さら書かなくてもいいかなーとは思ったものの・・・気になることは短く書いておこう。 みなさまの癒しだった蒲殿(源範頼)が「マクワウリ」に気を取られている間にサクッと殺されたシーン。ああ、三谷さん、そうか・・・ここで殺しちゃうのかと残念だった。 埼玉県の吉見で蒲殿の子どもたちが生存したとの記録があるので、そっちに逃げる説を選択する手もあるかなと思ったけれども(吉見の皆さんも期待していただろう)、義経と同じように「こうあってほしい」伝説には逃げずに、無残にも殺さ…
NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人第24回「変わらぬ人」 蒲殿、あまりにも優しすぎます。 いい人過ぎます。 言い訳もしない、人のせいにしないどこまでも「変わらぬ人」です。 潔くて穏やかでとても好感もてます。 なのに、、、そんな~! それにしても、 頼朝、範頼を伊豆の修善寺に幽閉を命じたのだから、 生かせておけば、源氏も三代で終わらなかったかもしれないのにって思ってしまいました。 頼朝、権力を手に入れた人の末路を見る感じですね。 秀吉も然り
鎌倉殿の13人 第24回 2022年6月19日放送 本編タイトル「変わらぬ人」 紀行コーナー:源範頼の墓(静岡県伊豆市)
山の神は金剛(泰時)を祝福した 今期のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、6/12に23回「狩りと獲物」が放送され、有名な「曾我兄弟の仇討」が重要なモチーフになって話が展開した。(以下感想、がっつりネタバレです。ご注意を) 頼朝が自分の後を継がせて二代目鎌倉殿にしたい嫡男・万寿。そのお披露目の場として催された富士の巻狩り。しかし、万寿は狩りの方はてんでダメで、軽々と猟の成果を挙げたのは義時の長男「成長著しい金剛」の方だったわけだが、この「成長著しい」というテロップには笑った。 それもそのはず、前回の子役からいきなり、大人の役者・坂口健太郎(30歳)になったから、違和感はありあり。当時、金剛は…
樹齢千年を超える古木や伝説が残る名木など、 大きく枝を広げて咲き誇る一本桜を 例年の見頃の時期と併せてまとめて ご紹介します。 小岩井農場の一本桜 「石割桜いしわりざくら」 「三春滝桜みはるたきざくら」 「石戸蒲ザクラいしとかばざくら」 「吉高の大桜よしたかのおおざくら」 「山高神代桜やまたかじんだいざくら」 「王仁塚わにづかのサクラ」 「報本寺ほうほんじのしだれ桜」 「狩宿の下馬桜かりやどのげばざくら」 「根尾谷淡墨ザクラねおだにうすずみざくら」 「出水のしだれ桜でみずのしだれざくら」 「佛隆寺千年桜ぶつりゅうじせんねんざくら」 「本郷の瀧桜ほんごうのたきざくら(又兵衛桜またべえざくら)」 …
06:34:11 宿は修善寺温泉桂川です。温泉街では下流に位置します。朝のランニングで竹林の小路を通って源範頼の墓まいりをします。義経に続き、範頼も幽閉後謀反を疑われ攻め込まれて自刃します。頼朝っぽい仕打ちです。 06:33:07 興味のないもちはお土産屋で駄菓子を選び、抹茶ミルクソフトクリームを食べたらごきげんになりました。 06:30:27 韮山反射炉は思いの外オープンというか、素通しの構造の炉でした。ふいごを使わず自然通風で煙突に抜けるようです。耐火レンガによる反射が肝のようです。面白いです。 06:27:16 修善寺温泉に宿泊しました。お疲れさま温泉旅行です。でも韮山反射炉見学を組み込…
はじめに奈良時代の終わりから始まるこの時代は、794年に平安京(現在の京都)が新たな首都として建設されたことにより幕を開けました。この時代は、約400年間にわたり、日本の文化、政治、社会が大きく変化し、今日に至る多くの日本の伝統や文化の基礎が築かれた時期です。奈良時代からの移り変わりの背景には、政治的な安定を求める動きや、中国の唐の影響から脱却して独自の文化を発展させようとする試みがありました。平安時代には、中央集権的な国家体制が確立され、貴族中心の政治が展開されました。これにより、文化や芸術が大きく花開き、日本古来の美意識や価値観が形成されていきました。特に文化面では、和歌や物語文学が隆盛を…
アフィリエイト広告を利用しています # 源義経とは?平家を滅ぼした英雄の悲劇的な生涯 こんにちは、今回は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将、源義経について紹介したいと思います。源義経は、鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝の異母弟であり、平家との戦いで数々の武勲を挙げましたが、その後、兄と対立して追われる身となり、最期は奥州で自刃しました。その生涯は、多くの伝説や物語を生み出し、後世の人々の心をとらえてきました。では、源義経とはどんな人物だったのでしょうか。その生涯を簡単に振り返ってみましょう。 ## 幼少期~鞍馬寺での修行 源義経は、平治元年(1159年)に京都で生まれました。父は河内…
アマゾンのプライムリーディングに有ったので読んでみました。作者も不案内でどんなもんだろうと思いながら読み始めました。 結論から申し上げると面白かったです。話は頼朝、義経の間の異母兄弟の範頼の心のうちを語った小説でした。従来の歴史小説は勇猛果敢な戦闘や政治の駆け引きを描くものが多いのですが、この作品は淡々と範頼の思いのみを語っていくものでした。鎌倉時代は江戸時代と比べると圧倒的に資料が少ない中、著者は吾妻鏡から史実を参考として平家物語、玉葉を補助として読み解き、ストーリーを組み立てて行った様です。本の帯に書かれた要約です。「鎌倉なんか、来るんじゃなかった。蒲御厨で静かに暮らしていた範頼は、命の危…
旭将軍。その異名の由来は、太陽にように東から来訪した将軍やら、破格の勢いで上洛を果たしたこと、など説がいろいろある様です。 旭将軍こと木曾義仲は源氏の出身で、源義経や頼朝とは親戚関係にありますが、敵対することになります。どうして義仲は木曽を名乗ることになったのか? どうして義経と敵対することになったのか? 今回は木曾義仲の生涯を簡単に解説できたらと思います。 生涯 生まれ 挙兵 倶利伽羅峠の戦い 京 頼朝との戦い 生涯 生まれ 木曾義仲は1154年に武蔵國の秩父(埼玉県秩父市)で生まれたとされています。幼名は駒王丸(こまおうまる)。父である源義賢(よしたか)は河内源氏の出身で、帯刀舎人(たちは…
こんにちは、よたろうです。今回は広島市佐伯区にある、源範頼の五輪塔を紹介します。 データ 鎌倉から逃れた範頼が遭難して落命した伝説の地 アクセス データ 名称:源範頼の五輪塔 訪問日:令和5年8月28日 鎌倉から逃れた範頼が遭難して落命した伝説の地 源範頼の五輪塔は、鎌倉時代の後期に範頼の末裔である吉見氏が現在地に建立したと伝わっています。 拡大すれば読めますかね? ※範頼の没後に子孫が「吉見氏」と称した経緯についてはこちらの記事をご参照ください。 kamakura13.hatenablog.com 老人ホームの敷地内にひっそりと佇んでいます この地に源範頼の五輪塔があると知ったときは「なぜ広…
序文・最期の奉公 堀口尚次 源義仲は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義(よし)賢(かた)の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾義仲の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍〈旭将軍とも〉と呼ばれている。 以仁王(もちひとおう)〈後白河天皇の第三皇子〉の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮(ほくろくのみや)として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽…
平清盛は1181年2月に熱病(猩紅熱?)で亡くなり、後白河法皇は何とか自力で幽閉先から脱しました。 Kiyomori Taira had a fever (scarlet fever?) and died in February of 1181, and Goshirakara Dharma Emperor managed to break out the prison on his own. 倶利伽羅峠(富山県)で平氏軍を破った源義仲は1183年7月には都にまで進軍しました。 After Yoshinaka Minamoto defeated Heishi’s troop at Kurika…
石戸蒲桜 埼玉県北本市石戸宿3丁目119番地 東光寺境内 国指定天然記念物 (大正11年指定) 日本五大桜の一本 江戸彼岸桜と山桜の自然雑種 自生するものとしてはこの石戸蒲桜一本である。 (他は接ぎ木などで増やしたもの) 花は、小さい花で薄いピンク色 樹齢・・800年 樹高・・12メートル 幹回り・・7.2メートル ※ 石戸蒲桜の名前は、「蒲冠者」の異名を持つ 源範頼に由来 (以上・・Wikipediaより) 東光寺の横に立っております。 幹回り 7.2メートル、すごい姿ですね。堂々としています。 東光寺境内には、染井吉野の古木が何本も見られます。 東光寺境内の入り口の染井吉野の古木。かなりな…
本作は、「著 ケン・セントアンドレ 翻訳:安田均/グループSNE」が権利を有する『トンネルズ&トロールズ完全版』の二次創作作品です。 (C)Group SNE 「トンネルズ&トロールズ完全版」 おごれる核通久しからず。T&Tも諸行無常。 1人用。善の種族のみ(人間推奨だが、人にあらずとも可)。1レベル限定。性別・タイプ不問。PCは源氏方か平家方として合戦に加わる。 地形は、(西 平家側)壇浦―八島―一谷―宇治川―富士川―石橋山―鎌倉(東 源氏側)。 戦はまず中央の宇治川から始まり、PCが勝てば一つ奥の戦場に進める。 逆にPCが逃亡した場合は、一つ手前の戦場に後退する。自軍側の最後の拠点(鎌倉/…
遅くなりましたが、あけましておめでとうございます 元日の能登地震はびっくりしましたね。なんか長い揺れだなと思って、地震速報見たら石川で震度6と知って驚きました。 12/24 M-1グランプリ2023 コロナ禍を機にお笑い熱が再燃してからまた見るようになったM-1グランプリ。今年はあまり知ってるコンビいないしなーとは思っていたのですが、昨年おもしろかったさや香がいたので見ることに。大吉先生、昨年はオープニングで既に顔色悪そうでしたが、今年はまだよさそうだったかな。コンビの人生かかってるからプレッシャーになるのもわかります。 個人的にヤーレンズの「ゴスペラーズ誰が好き?わたしドラム」「いねえよ。全…
埼玉県比企郡吉見町にある真言宗智山派・安楽寺。坂東三十三観音11番札所。吉見観音とも称される。奈良時代の僧行基が聖観音像を安置したのに始まり、平安時代初期の武将坂上田村麻呂が堂宇を建立、その後、源頼朝の弟源範頼が三重塔などを建てたという。 坂東三十三観音霊場11番札所・安楽寺の御朱印と御詠歌。 安楽寺境内点描
足利義兼は室町幕府を開いた足利尊氏の先祖です。父は義康、妻は北条時政の娘で、兄弟には矢田義清がいます。覚一本『平家物語』には、藤戸合戦(元暦元年(1184))で源範頼軍の中にその名が見え、『吾妻鏡』では、頼朝の奥州合戦(文治五年(1189))に参加したことなどが記されています。 【鑁阿寺(ばんなじ)多宝塔と義兼手植えの大銀杏】 鑁阿寺は、建久七年(1197)に義兼が創建したとされる足利氏の氏寺です。多宝塔の傍らには、義兼のお手植えと伝わる大銀杏(天然記念物)があります。 【足利学校跡】 日本で最も古い学校とされる足利学校は、一説には義兼が創設したといわれています。その後衰退しますが、室町時代に…
舟見城説明板 舟見城は、越中越後境目の宮崎城の城主であった宮崎長康の嫡子入善行重が築いたというが、詳細は不明である。伝統的に、越後から侵入する軍勢に対する監視拠点のひとつであった。 行重の出自である宮崎氏は、藤原不比等の次男房前が興した藤原北家の系統で、房前の五男魚名の流れである。魚名流の子孫に藤原利仁がおり、利仁の子井口光義が越中で勢力を扶養したため、越中にその子孫の家が多いのだが、その中でも石黒家とこの宮崎家は嫡流筋であったという。 長康は、上方より逃れ落ちてきた北陸宮を保護し、木曾義仲に報せて宮崎城に御所を造ったとされる。そして、寿永2年(1183)には、義仲軍が平家軍に敗れた越前燧ヶ城…