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沢田美喜

(一般)
さわだみき

生没年1901年9月19日 - 1980年5月12日。
混血児養育施設「エリザベス・サンダースホーム」の創始者。

[前半生]
三菱財閥第3代当主・岩崎久弥(三菱創始者、岩崎弥太郎の長男)男爵の長女として生まれる。
少女時代からキリスト教に傾倒し、外交官・沢田廉三(1954年4月から翌年7月まで国連大使)と結婚後、キリスト教聖公会に改宗。
夫の赴任に伴い、戦前、イギリス、フランスに居住。
イギリスでは孤児院ドクターバーナーズホームを訪問し、社会事業に目覚める。
フランスでは著名な黒人舞踊家、ジョゼフィン・ベイカーと親交を深め、エリザベスサンダースホーム創設後はベイカーから精神的・経済的な援助を受けた。ベイカー自身も複数の人種からなる恵まれない子供たちを養子にするという社会事業家としての一面がある。
[後半生]
沢田美喜自身が後に講演で多く話したエピソードでは、彼女がエリザベスサンダースホームの設立を決意した契機として、次のような事件があったという。
混雑した列車に乗っている時、荷物棚から新聞紙にくるまれたものが落ちてきて、開けてみるとそれは混血の嬰児の遺体で、彼女は周囲から、その母親ではないかと疑われ、非難された。この時は、別の女が荷物棚にこの包みを置いたという目撃情報があったので、疑いは晴らされたが、混血児が置かれた過酷な状況、その母親に対する偏見を知り、後半生を混血児救済に捧げる決意を固めたという。
沢田美喜に親しんだ人たちが指摘するのは、彼女が非常に物事を大袈裟、かつ劇的に脚色する傾向があったので、この鮮烈なエピソードもあるいは作り話かも知れないという疑いがある。
しかし、1948年2月、沢田美喜はエリザベスサンダースホームを創立し、混血児救済に乗り出したのは事実である。
[エリザベスサンダースホーム]
沢田美喜が責任者となって聖公会の事業として、エリザベスサンダースホームは設立された。
エリザベス・サンダースは長く三井家に仕えたイギリス人女性で、遺産をこの事業に提供し、彼女の名を記念して、ホームの名はつけられた。
ほぼ、混血児専用の養育施設として開始され、本来、養育施設は各地方自治体の範囲内の福祉に関わるものだが、神奈川県大磯市にあったエリザベスサンダースホームは全国から混血児を受け入れた。
創設当初から非混血の子供も少数ながら在籍し、現在は通常の養育施設となっている。
財閥解体に伴い、三菱はこの事業を主導して支援する体力は無く、在日米軍のほか、有力資産家などから広く寄付金をつのり運営された。社交的な沢田美喜が大きく貢献したのは経営的な部分である。
教育者としては、批判される部分も多くあり、ホームに関わった職員が数多く、彼女との対立が原因で去るなど、強引で独善的な運営も目立った。
世間の混血児に対する風当たりによって、子供たちが卑屈になってしまうことを恐れて、沢田美喜はホームを世間から隔離し、閉鎖空間として運営した。混血児たちが学齢に達すると、ホームに隣接して聖ステパノ小学校、同中学校を創立して、隔離を続けた。両学校は現在は通常の私立学校として運営されている。
この態度には批判もあり、義務教育終了後、世間に出た混血児たちが厳しい世間の現実に適応できず、非行に走る者が少なくなかったのは、現実社会から切り離された状況で育てられたからだという意見もある。
いわゆるえこひいき、決め付けが甚だしく、苛烈な体罰をしばしばなしたという批判もある。
もちろん、エリザベスサンダースホームが混血児の福祉のために大きく貢献したのも事実であり、全体として沢田美喜の業績を否定する声はほとんどない。
小坂井澄氏による伝記「これはあなたの母-沢田美喜と混血孤児たち」では、

美喜の依怙ひいきと、粗暴な行為に発展する激しさは、多分に性格的なものである。彼女がその性格と闘った跡も、見ることができる。だが、それ以上に、彼女はその性格をひっくるめて、その性格を覆い隠そうとはせずに、本能的盲目的に愛情をぶつけていったのではないか。

それは「母親の愛情」である。(中略)沢田美喜の心にあったものは、理性も意志も含めて、教育者のそれでは断じてなかった。養育事業家、社会福祉家のそれなどでもなかった。

教育者としては彼女は落第であったという批判も聞く。もちろん、そのこと自体は養護施設や学校の責任者としては問題であるが、だいたい教育者と母親を両立させることは無理なのである。

と、記されている。
[家族・死]
沢田美喜の事業は、家族に大きな負担を与えた。夫は妻の事業の意義を認めながらも、負担には感じていたようだ。
家族へ割ける時間が大幅に激減したことから、澤田美喜の子供たちは反発したこともあったようだが、最終的には理解した。
1980年、スペインのマヨルカ島に旅行中に死去。
[その他]
沢田美喜はキリスト教の聖遺物の収集家としても知られ、その一部は神奈川県大磯市の沢田美喜記念館に展示されている。
1962年から混血児自立事業としてブラジルに聖ステパノ農場を設立したが、この事業は失敗に終わった。

・the first edit
混血児救済施設の創設者。この年2月、「エリザベス・サンダース・ホーム」を設立、混血児に対する差別に立ち向かった。占領下の日米混血児は約5000人。そのうちホームで育った子どもは2000人、仲立ちをして海外に養子に送った子どもは500人を超えた。三菱財閥の創立者岩崎弥太郎の孫として生まれ、外交官沢田廉三と結婚。1946年、汽車の網棚の包みが沢田の膝の上に落ち、中から混血の赤ん坊の死体が出てきた。誤解を受けて周囲の冷たい視線を浴びる。この体験によって混血児の母に対する偏見を知り、混血児の養育を決意。戦後、夫は公職追放、実家は財閥解体で経済的困難を極めたが、借金と寄付で神奈川・大磯の旧岩崎別邸を政府から買い戻し、混血児救済施設として開放した。「米国の恥」と米国人の反対と地元日本人の反感との板挟みにあったが、米作家パール・バックや黒人歌手ジョセフィン・ベイカーの支援によって、道が開けた。

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