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江藤新平

(一般)
えとうしんぺい

天保5年2月9日(1834年3月18日) 佐賀藩の下級武士の家庭に生まれる。
 1856年には意見書である『図海策』を執筆、また大隈重信・副島種臣・大木喬任らと義祭同盟を結成する。
 1862年(文久2)に脱藩し京都で活動したが、2ヶ月ほどで帰郷し蟄居となる。1867年(慶応3)の12月に江藤は蟄居を解除され、新政府が誕生すると副島種臣とともに京都に派遣される。
 新政府において江藤は征東大総督府軍監に任命され、土佐藩士の小笠原唯八と共に江戸へ偵察に向かい、大木喬任と連名で岩倉に対して江戸(東京)への遷都を献言する。江戸で旧幕臣らを中心とする彰義隊が活動していた問題では長州藩の大村益次郎らとともに討伐を主張し、江藤は軍監として上野戦争で戦い、彰義隊勢を寛永寺に追い詰めた上で佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃するという戦術など新政府軍の攻勢で彰義隊は瓦解する。
 新政府が設置した江戸鎮台において、長官の下の6人の判事の1人として会計局判事に任命され民政や会計、財政、都市問題を担当。1870年1月には佐賀に帰郷し着座(準家老)として藩政改革を行うが、中央に呼び戻され、同年11に月太政官中弁となり、翌2月には制度取調専務に任じられ、国家機構の整備に従事し、大納言岩倉具視に対して30項目の答申書を提出する。近代集権国家と四民平等を説き、国宝会議や民法会議を主催して民法典編纂に取り組む。
 1872年には司法卿、参議と数々の役職を歴任、その間に学制の基礎固め、四民平等、警察制度整備など近代化政策を推進、特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。政府内における急進的な民権論者であり、「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第22号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第46号などが知られる。また官吏の汚職に厳しく、1872年には新政府で大きな力を持っていた長州閥の山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追求、予算を巡る対立も絡み、2人を一時的に辞職に追い込んだ。
 1873年(明治6)に征韓論から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に下野、佐賀へ帰郷すると佐賀の乱の首領として擁立され、武装蜂起。乱は大久保利通率いる政府軍に敗れ敗走、鹿児島に隠棲中の西郷隆盛のもとを訪ね武装蜂起を説くが、いずれも容れられず岩倉具視への直接意見陳述を企図して東京への上京を試みるが、途上に現在の高知県甲浦付近で捕縛、佐賀へ送還される。江藤は急設された佐賀裁判所にて裁かれ、処刑・梟首された、享年41。

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