近代までの氏姓制度において、ある氏族の首長のこと。 藤氏長者(藤原氏)は摂政、関白を兼ねていた。 源氏長者は源氏二十一流すべての首長であったが、朝廷に根ざす制度であるため武家源氏(征夷大将軍)では、足利義満まで氏長者を務めたものはいなかった。 その後は、清和源氏足利家と村上源氏久我家が混合で務めていたが、徳川家康以降は、将軍宣下と源氏長者就任がセットになり、家康以降15代全て徳川家が独占した。
序文・名誉と権威 堀口尚次 源氏長者(げんじのちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる〈現任上首〉。源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵(うじのしゃく)〈朝廷において行われた氏の氏人の中から推挙された者を従五位下の位階に叙す制度〉の推挙などの諸権利を持つ。一般的には、奨学院〈公家の教育機関〉・淳和(じゅんな)院〈淳名天皇の別荘〉の両別当〈長官〉を兼任するといわれているが、自身も源氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たし、その場合、次席が淳和院別当となると解説している。 源氏長者は、当初は嵯峨源氏か…
平安時代の中でも、特に摂関政治がインパクトに残っている人も多いでしょう。しかし言葉は分かるものの、具体的な仕組みがわからない人もいるはずです。 この記事では、摂関政治の制度についてなるべく簡単に説明します。摂政と関白の仕組みも詳しく取り上げるので、日本史の勉強を頑張っている人は参考にしてみてください。 摂関政治とは 摂政と関白の違い 摂政=幼帝の代理 関白=成人天皇の補佐 摂関政治と外戚 摂関政治と藤原家 朱雀天皇と藤原忠平 三条天皇と藤原道長 後一条天皇と藤原頼通 後三条天皇と摂関政治の衰退 摂関政治は細かく制度を押さえよう 摂関政治とは 摂関政治とは藤原氏が編み出した政治スタイルを指し、主…
平安時代について断片的な知識しかなかったので、 平安時代の出来事を年表にまとめた。 参考 平安前期 平安中期 平安後期 平安時代の文化 悪霊と祈祷の時代 平安時代の出来事 平安前期の出来事 781年 (天応元年) 桓武天皇 即位 794年 (延暦13年) 平安京に遷都 800年(延暦19年) 富士山が噴火 (延暦の大噴火) (805年 (延暦24年) 最澄 が 比叡山延暦寺 を創建 806年 (大同元年) 平城天皇 即位 806年 (大同元年) 空海が 高野山金剛峯寺 を創建 807年 (大同2年) 伊予親王の変 809年 (大同4年)(809年) 嵯峨天皇 即位 810年 (大同5年) 薬子…
序文・上杉謙信との盟約 堀口尚次 近衞前久(さきひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公卿。官位は従一位・関白、左大臣、太政大臣、准三宮。近衛家17代当主。天文23年に関白左大臣となる。また、藤氏長者(とうしのちょうじゃ)〈藤原氏の代表〉に就任した。天文24年、従一位に昇叙し、足利将軍家からの偏諱〈「晴」の字〉を捨てて、名を前嗣(さきつぐ)と改めた。この当時、将軍・足利義輝は三好名慶(ながよし)との対立により、京から朽木に動座しており、改名したのは義輝との関係を断とうとしたからとされる。 永禄2年、越後国の長尾景虎〈後の上杉謙信〉が上洛した際、前嗣と景虎は互いに肝胆(かんたん)照らし合い…
藤原頼長という人物は、王朝以来、日本に政権を作った最初の人物だろう。王朝とは、奈良時代の律令政治と藤原摂関政治までのことを指してこの場では使っている。律令政治というのはよほど日本の実状に合わなかったようで、藤原摂関政治によって解体されている。藤原摂関政治は表向き律令政治を貴びながら律令政治を解体したが、政治的な抱負に乏しく、政権とは言いがたいところがある。平たく言えば藤原氏の自家の繁栄しか求めていなかったということである。頼長は関白藤原忠通の弟で、齢が23歳離れていた。最初男子がいなかった忠通の養子になったが、忠通に嫡子基実が生まれると、兄から摂関の地位を譲られるのを諦めざるを得なかった。忠通…
ちょっとした山に登りたいと思いつつ。今年は熊害多いよなーコロナ明けで狂ったように行事やるなー等々、雑務や子供の行事で時間潰されまくった。11月も子供の行事で忙殺される。物忘れが酷く記憶がぽろぽろとこぼれ落ちてしまい、年を取った実感わいてきてるわー。少し長めに寝たら治るんだろうか。 そんなこんなで隙間時間で人里近い神社を巡っているだけの人になってしまった。熊が怖いしね! 治田神社は古く、延喜式内社だという。 上宮と下宮があって、まずは上宮に行ってみた。下宮には以前行ったことがあったけど、上宮は初めてだった。下宮に比べると小さく、田舎の鎮守社という雰囲気。 境内の説明板には、 御祭神 彦坐命(ひこ…
権勢から外されたさがなもの藤原隆家 平安時代に起こった異民族の侵攻事件に対応した公家の物語。 藤原隆家は979年に関白であった藤原道隆の子として生まれる。道隆は道長の兄で父の後を継いで摂政関白となり中関白と呼ばれた。道隆は娘の定子を一条天皇の中宮として入内させており、中関白家の権威は絶頂を極めていた。長男の伊周は21才で内大臣、隆家も17才で権中納言に任じられていた。隆家は「世の中のさがなもの」と呼ばれていたという。さがなものとは乱暴者などの意味があるという。実際に隆家の従者が乱闘沙汰などを結構起こしていたという。 しかし隆家が権中納言になった4日後に父の道隆が亡くなる。代わって権力を握ったの…
覇王の家(上下) 合本版(新潮文庫) 作者:司馬 遼太郎 新潮社 Amazon 名乗りの成り立ち 繰り返しになりますが、足利朝氏は、筆者が創り出した架空の武将です。ただ、幼名足利春王は実在の少年です。 繰り返しになりますが、足利朝氏は、筆者が創り出した架空の武将です。ただ、幼名足利春王は実在の少年です。 春王少年が元服し、諱(いみな)の名乗りを念願した強い想いは現代人には分かりにくいかも知れません。 元服を果たし、名乗りを幼名から諱に変えるのは一人前の武士としての誕生を意味します。 特に上級武士階級にとって内外に自らの存在を示す一大事でした。元服し名乗りをしないのは生きた証が無いのと同じです。…
等伯(上)安部龍太郎日経新聞出版社2012年9月14日 第1刷2013年2月1日 第9刷*初出 日本経済新聞朝刊 2011年1月22日~2012年5月13日。単行本化にあたり加筆修正しました。 ずっと、気になっていた本。安部さんの本の中でも時々出て来るし、先日、叔父が面白い、といっていたので、図書館でかりてみた。 戦国時代の絵師、長谷川等伯のお話。長谷川等伯は、私がずーーーっと昔から見たいけれど見たことのない『松林図屏風』(東京国立博物館)を描いた、戦国時代の絵師。狩野派と闘った孤高の絵師、、、というのが私のイメージ。本書は、その等伯を主人公にして、安部さんが戦国時代を描いた時代小説、って感じ…
奈良時代から平安時代、それ以降の時代も歴史に大きくかかわってきた藤原氏。その中心の摂関家がどんな系譜をたどったのか、それを知りたいが為に読んでいる感じです。 藤原冬嗣 (306) (人物叢書) 作者:達哉, 虎尾 吉川弘文館 Amazon 人臣で初めて摂政になった藤原良房の父親になります。先祖は藤原北家の藤原房前。この人、他の『藤原四兄弟』と言われる藤原不比等の息子たちの中で少し政治的立ち位置が異なっていたとも言われています。父親が亡くなるまでは良かったけれども、長兄武智麻呂が主導権を握ると、少し主流から外れた位置にいたかも?と。 この人の祖父、房前三男の真盾は大納言までになるも政権首班とはな…
こんにちは、暖淡堂です。 北方謙三さんの本も大好きで、よく読んでいます。 特に歴史物が好きです。 今回紹介するのは「絶海にあらず<上>」です。 絶海にあらず〈上〉 (中公文庫) 作者:北方 謙三 中央公論新社 Amazon 上巻のあらすじは以下になります。 *🌱🌱🌱🌱🌱* 平安時代の京では、藤原北家が次第に強大な権力を握りつつあった。その北家に繋がる藤原純友は、ふとしたきっかけで任官することになる。藤原氏の氏長者、忠平の窮地を救ったのだった。純友は従七位下伊予掾(いよのじょう)として任官、赴任する。 瀬戸内海では水師たちが、京からの指示による内海の通行制限に反発し、海賊行為をしていた。それを、…
土曜日はマダミスに参加し「マダミスは運ゲーだなぁ」と再び実感し、その後に麦酒を二リットル越え飲みました。んで早く飲み始めたから早く帰宅したので、そのまま映画を見るかと思っていましたが、その日に限って父親が午後十一時近くまでTVを見ていたので、まぁ寝てしまえ、と。寝入りばなが寝苦しく、明け方が涼しいという現在の気候は寝不足になるのに最適です・・・寝付けないし目覚めが早いから。 マダミスは落語ネタを使用した比較的簡単なものでしたが、犯人側に犯罪の確証を握られてしまったら、どうにもならないよねーっと。あと人情噺的なオチになっていましたが、あんまり参加者の共感は得られていませんでしたね。感性違い。セッ…
・貞永1年(1232) 11.17 後堀河天皇は譲位し、秀仁親王が践祚した。(『民経記』『百錬抄』) ・天福1年(1233) 5.? 佐原(平)盛連は、制止を聞かずに上洛しようとした途中、北条(平)泰時の支持で殺害された。(『明月記』) ※三浦(平)義村の娘(後の法号を矢部禅尼)の元夫が、現夫の殺害を支持したことになる。理由は不明である(細川重男『宝治合戦』)。 ・天福1年(1233) 大江広元の子息である、毛利(大江)季光が評定衆となった。(『吾妻鏡』) ・天福1年(1233) ?.? 前大納言藤原教家と、尼正覚らは、山城国宇治に興聖宝林禅寺(興聖寺)を建て、道元を招いて開山とした。(『初祖…
・1180年(和暦治承4) 2.21 高倉天皇の譲位により、言仁親王が践祚した。藤原基実は摂政を続けた。(『玉葉』) ・1180年(和暦治承4) 4.9 以仁王は源頼政と共に謀議し、源行家を遣わして、平家追討の令旨を諸国の源氏などに伝えた。延暦寺、興福寺の僧兵の橋梁も取り付けた。(『玉葉』『吾妻鏡』) ・1180年(和暦治承4) 4.27 源行家は甥の源頼朝のもとを訪れ、以仁王の令旨を届けた。その令旨を読んだのは、頼朝と舅の北条(平)時政のみであった。(『吾妻鏡』) ※『吾妻鏡』は、令旨を読んだ頼朝は挙兵を決心したとあるが、実際のところ、政争に巻き込まれたくなかった頼朝と時政は、誰にも知らせず…
・寛和2年(986) 6.23 懐仁親王は践祚した。藤原良房の先例に従い、右大臣,藤原兼家は摂政に任じられた。(『日本紀略』) ・寛和3年(987) 1.24 平貞盛の弟,繁盛が金泥で書写した『大般若経』1部600巻を延暦寺に奉納するに際して、朝廷は美濃国司に道中の安全保障を命じた。(「太政官符案」『平安遺文 9』4573) ※太政官符は繁盛の主張を載せている。それによれば、繁盛は平将門追討に尽力したものの、兄,貞盛と違って恩賞を与えられなかったという。とはいえ繁盛のことを「散位従五位下」と表記していることから、生涯無位無官ではなかったようである(近藤成一「平将門」『歴史のなかの人間』)。 ・…