幕末期の政治家(1823.01.04-1889.04.06).老中.備中国松山藩主. 父は桑名藩主松平定永.松山藩主板倉勝職(かつつね)の養子. 1849(嘉永2)年家督相続.50年奏者番,57年寺社奉行兼帯. 安政の大獄で更迭されるが,61(文久元)年復職し翌年老中.一時退職するが,将軍徳川慶喜を補佐した. 68(明治元)年に奥羽越列藩同盟の参謀となり箱館まで逃亡,新政府に自訴し終身禁固,のち許されて上野東照宮神職となった.
猫バカはね、ヨソ様のコも愛でるのですよ。ウチのコが一番だけれども。 というわけで、猫城主さんじゅーろーに会ってきました。 www.okayama-kanko.jp 場所は岡山県高梁市の備中松山城。 岡山観光のサイトを参照していただければと思いますが、西日本豪雨の後、どこからかやって来て、ずっと前からいるような体で住み着いたさんじゅーろー。その堂々たるお姿に「城主」認定されたとか。 殿、今から拝謁に参りまする! と、意気揚々向かったわけですが、山城なもんで上の方にあるわけで… 上の駐車場は14台しか駐車できないとかで、週末は下の駐車場からシャトルバスが出ていました。 で、上の駐車場に着いたら、そ…
クレオパトラのショーベン滝!?(実は井倉滝) ◎備中高梁に向かう 成羽美術館~児島虎次郎にちなむ 津和野を離れ、私は高梁市を目指した。高梁市の成羽町には写真の「高梁市成羽美術館」があるからだ。もっともそれは高梁市街からは西に8キロほど離れた場所にある。成羽町(旧川上郡下川原村)は画家の児島虎次郎が生まれ育った場所である。 児島虎次郎については本ブログの第92回で大原美術館のところで触れている。大塚国際美術館で初めて絵画の素晴らしさを知った私は、その後、数回は美術館に出掛けたり、図書館で美術書をめくってみたりしたが、あの『エデンの園』のような絵と出会うことはなかった。それが、大原美術館で児島虎次…
2023年5月20日発行 『及ばざる人』 武器弾薬を買い集め、それを枡屋の倉庫に隠した宮部鼎蔵だったが、枡屋の古高俊太郎が捕まった。張り込みの目を逃れて、面の割れていない土肥七助を使って武器弾薬を奪い返した。宮部鼎蔵は藩医の息子として生まれ兵学師範役として長崎に何度も出向くうち欧米との格差に愕然とし国防意識に目覚める。21歳の吉田松陰が九州を旅する中で宮部を訪ね、宮部は知行合一の魂を持つ松陰の情熱に当てられ、しかし膝を叩いて喜んだ。松陰は宮部を「及ばざる人」として尊敬し、今後も交流することで大きな益があると記した。江戸に山鹿素水兵学塾の門を叩くと松陰も入門し偶然の再開を果たし互いに刺激し合った…
19世紀日本。 2世紀以上にわたり続いてきた徳川家による統治は今まさに終わりを告げようとしていた。 破綻へと向かう財政を持ち直そうと、新たに老中首座に任命された水野忠邦は「天保の改革」と呼ばれる一連の財政再建策を開始。 しかし農民に対しても過酷な年貢率を課したこの改革は、やがてこの国最初の「扇動者」寺内護久を生み出すこととなる。 寺内は幕府の要職についていた農政家・二宮尊徳の協力を得つつ革新的な改革である「地租改正」を実施。 その後も数々の改革を推し進め、日本は次第に近代化の道を進んでいくこととなった。 さらに19世紀半ばになると、ロシアによる南下政策に脅威を感じた彦根藩主・井伊直弼が幕府の実…
2018年11月20日発行 良順は門人とともに会津の地に着く。慶喜が水戸に隠居謹慎する中、幕府に忠誠をちかい徹底抗戦を表明していた会津版のために力を尽くしたいと思い、同じ考えをもった門人たちとともに会津に入った。松平容保(かたもり)から呼ばれて直接声を掛けられ感謝される。新政府軍との戦闘で負傷した者たちの治療のために日新館を仮病院とするが、町の医者の最初の手当が誤っているために患者は次々と死んでいく。思い余って容保に会い、村の医者を集めて応急処置の講義を行う。次は栄養不足を改善するために牛肉を与えたいと容保に要望し、牛が届く。会津は古くからの仕来りに固執する傾向があったため野菜に混ぜ味噌に入れ…
寝る前に書くことにタイトルなんか付けない。今日の花言葉◆桜の花言葉は「優れた美人」里菜そのもの♪♪♪♪♪♪ヽ(´▽`)/今日の大河ドラマ『徳川慶喜』「長州は領民全体に鉄砲などを持たせ、小倉城に迫っているとのことにござります」(板倉勝静/小林宏史)「幕軍が武士でない者たちに追い詰められていると申すか」(徳川慶喜/本木雅弘)小倉城を攻め落とした奇兵隊。身分を問わない軍隊・奇兵隊。慶喜にはこれが単なる長州の謀反ではなくて、市民革命なのだと思えた。世間がもう徳川の世を望んでいない。外国にやられっぱなしで、物価も上がりっぱなし。何も出来ない徳川より、新しい政府。奇兵隊の勝利は世間に「徳川はもうダメだ」と…
倒幕軍に対し、佐幕が奮闘しているときに、将軍慶喜の2度に亘る逃走で、260年続いた江戸幕府は崩壊した。慶喜は大政奉還し、維新後も華族として生きた。 こうした激動の中で、多くの藩が時代に即応できず混乱を来たし、お家存亡の危機に陥った殿様と藩士たちがいた。 この本では、7人の藩主・国父・家老を紹介していた。薩摩藩の島津久光は知っていたが、他の6人は歴史書でも時代小説でもお目にかかった記憶がないので勉強にはなった。 <目次> 第一章 理は殿様にか家臣にか 〇板倉勝静(かつきよ) 備中松山藩 藩主 家臣の願いをよそに反新政府を貫き、ついには蝦夷地へ 〇島津久光 薩摩藩 国父(息子・忠義が藩主) 新政府…