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松原忠司

(一般)
まつばらちゅうじ

忠司(ちゅうじ・ただし)。新選組四番隊組長。
播州小野出身(永倉新八の記録によると大阪浪士)。生年不明〜慶応元年9月1日。
はじめは小太郎とも言ったらしく、播州小野藩士の子として生まれながらも安政年間
に脱藩。大阪に柔術(関口流柔術)師範をしていたらしい。最初の募集により参加し、
副長助勤の四番隊長になる。
池田屋事件にも参戦しており、15両の褒賞金を賜っている。
文久3年8月の政変では坊主頭に白鉢巻をし、大長刀を担ぎ、仙洞御所前や禁裏御所
南門の警備にあたって「今弁慶」の異名をとったと伝えられている。
壬生村では、親切者は「山南と松原」と言われるだけあり、隊士にも優しかった。
松原の最後は不可解な点が多く、慶応元年9月1日、壬生天神横丁で未亡人と心中した
説と、ある失策により切腹をはかり、回復した後平隊士として復帰したが傷痕が悪化
して死亡との2つの説がある。
心中説は子母沢寛の『壬生心中』によるものだが、事実かどうかは不明。

松原忠司について

「親切者は山南、松原」と言われ、少しも心にわだかまりなく素直な人間で
あったと伝わる傍らで、気性が激しい感情家であったとも。
坊主頭で太っていたらしい。
出陣の際、いつも留守居役の多かった山南が、この時だけ出陣することとなったが、
彼の分だけ鎧が足りず、激怒。その傍らで松原は「山南先生、私が先生の前に
立ってこの腹が鉄砲を防ぎますから大丈夫です」と言って自分の腹をペチペチと
叩いて一同を笑わせた話が残っている。

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