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木下サーカス

(アート)
きのしたさーかす

創立百年を越える、日本を代表するサーカス団。

歴史

明治35年、初代木下唯助は勇躍大陸に進出。
第1回目の公演は岡山市千日前で開催された。
大正時代の頃から、欧米系の演技が加わり、近代サーカスに近い形になった。

2代目の光三が団長に就任したのは昭和34年だが、戦後間もない頃から実質的な指揮をとっていた。日大法科出身の彼は経営手腕を発揮し、早くも昭和25年ハワイへ渡り、海外公演の活路を求める。
昭和30年代には、5回も東南アジアやハワイを訪問しており、その数は昭和61年の中国公演までに、実に12回にのぼっている。
彼は、木下サーカスを初めて法人化し、週休制の完全実施に先べんをつけ、社員の宿舎は近代的なコンテナハウスにするなど、業界のリーダーシップを取り、絶えず近代化を図ってきた。

昭和58年、長男で同じ日大法学部卒の光宣が3代目社長に就任以来以降、名実ともに木下サーカスの若き指導者として、率先して団をリードしてきた。しかし、惜しいことに、平成3年2月に病魔に抗しがたく、逝去。

跡を次男で明大経営学部卒の唯志が4代目社長に就任、木下嘉子副社長や臼井専務などと手を携え、木下サーカスの伝統芸をしっかりと守るとともに、欧米のサーカスを視察したりして若い感覚を取り入れ、新しいサーカス像の創造にまい進している。

神戸博、ポートピア'81のような大博覧会に森繁久弥氏演出によるサーカスが登場したのは初めてのことであり、昭和58年香港市政局主催の香港公演や昭和61年の中国公演(広東省珠海市)による海外公演は画期的な事業であった。
そして、名誉ある'88瀬戸大橋博覧会・四国(6か月間)にも出演した。

現在、木下サーカスは年間120万人を誇る観客動員数、芸の内容とともに世界3大サーカスにま
で成長した。

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