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望月優子

(映画)
もちづきゆうこ

女優。1917.1.28(大正6)〜1977.12.1(昭和52)
本名 鈴木美枝子。旧芸名 望月美恵子。

養父母に育てられるも、養父が再婚するなど不遇な家族環境に育つ。忍ヶ丘高女中退。浅草のカジノ・フォーリーの踊り子となる。昭和10年、新宿ムーラン・ルージュで踊りや演劇で活躍する。菊地寛の秘書だった小磯なつ子(本名:佐藤碧子)から文学、読書の影響を強く受ける。有楽座で古川緑波ロッパ一座の旗揚げをしたときにムーランから移動したが、女優としてよりはダンサーとしての処遇に疑問を持ち、また、古川緑波との指導方針に反発、間もなく退座した。その後宝塚ショウに入り、(中国)大陸の部隊慰問などをする。23歳、劇作家の阿木翁助のすすめで新派に加わり、女優としての道を歩む。新宿紀の国屋の主人田辺茂一のすすめで文学青年鈴木重雄と知り合い、昭和16年秋に川端康成を仲人として結婚。
丸山定夫の苦楽座に誘われ、真船豊作「見知らぬ人」に出演、この演劇により「演技者が役を創っていく」新劇の稽古で開眼する。(丸山氏は桜隊という移動劇団を組織し、広島原爆で死亡)
戦後、姑との同居に悩む一方、再び舞台に立つことを計画。東芸から帝劇での「復活」に出演。有楽座での「破戒」、帝劇の「たくみと恋」、三越の「女子寮記」「山脈」などに出演。(1950年頃、新劇俳優の映画出演ブームがおこる。)
また、同じ頃、劇団民藝俳優の共産党入党が相次いだが、望月は日本での革命に疑問を持ち、共産党に入るよりももっと身近な問題として、日本の女のあり方をつきつめたいと、自分の方向を考えた。
その後、5年入団していた劇団民藝をやめ、松竹と契約。
渋谷実の映画「四人目の淑女」に初出演、以後、多数の映画に出演する。
1971参院選全国区に社会党から出馬して当選。タレント議員ながら文教委員、沖縄返還特別委員会委員長などで活躍。また、「ヒロシマ1966」「ヒロシマの証人」に主演するなど、社会問題へ積極的に参加。

主な出演映画

木下恵介「カルメン故郷に帰る」
「日本の悲劇」1953年、35歳
独立プロ作品「狂宴」、「晩菊」「おふくろ」「夕焼け雲」
久松静児の「おふくろ」、山本薩夫の「荷車の歌」
今井正「米」、大庭秀雄監督「君の名は」1953年
木下恵介監督「楢山節考」1958年、大島渚監督「愛と希望の街」1959年
木村荘十二監督「うなぎとり」1957年
35年児童劇映画「海を渡る友情」を監督。

著書

「生きて生きて生きて」「生きて愛して演技して」がある。

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