藤原仲麻呂の乱とも。 奈良時代は淳仁天皇の代、天平宝字8年(764年)9月に藤原恵美押勝(藤原仲麻呂)が起こした反乱。 光明子(光明皇太后)の崩御後、孝謙上皇の権威回復に焦った押勝が反逆を企てたが中途で発覚し鎮圧された。この乱で押勝は討死。道鏡が重用されるようになり、淳仁天皇はこの乱に加わったとして廃位、孝謙上皇が重祚し称徳天皇となる。 押勝はその子孫を次々と要職に就けて藤原氏本家にも対立者を生んでおり、根回しに失敗して孤立していたと考えられる。
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恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱、宇佐八幡宮神託事件を紹介する。当時の時代背景をふまえながら、次の流れで紹介していく。 ・聖武天皇による東大寺の廬舎那仏の建造・女帝が続いた7、8世紀の時代・光明皇后・孝謙天皇/称徳天皇・藤原四兄弟の病死と橘諸兄(たちばなのもろえ)・藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱(740年)・孝謙天皇の即位と藤原仲麻呂・聖武の崩御(756年)と橘奈良麻呂の乱(757年)・淳仁天皇の即位と藤原仲麻呂の政策・孝謙上皇に近づく道鏡・恵美押勝の乱と淳仁天皇の流刑・宇佐八幡宮神託事件 ■聖武天皇による東大寺の廬舎那仏の建造聖武天皇(在位:724年~749年、生没年701~756年)の詔によ…
元号に関する事項のまとめ。
前回、「いま、ふたたびの奈良へ」と締めくくりましたが、今は「いざいざ奈良」のようです。 こちとら関西在住でいっ。J〇東海さまのことなんか知らねぇやいっ(関西でもCM流れているのかしら?) ・・・法隆寺散策が続いて、東院。 東院は斑鳩宮の跡地に建立されました。 そう、かつてこの地にあった斑鳩宮は、入鹿率いる兵で山背大兄王、つまり上宮王家と共に滅ぼされたのです。 私が受けた昔の歴史の授業だと、「この乱は蘇我一族による横暴の事例として挙げられ、いわゆる天皇復権を目指す2年後の大化の改新(現在は「乙巳の変」)に繋がっていく」とされていました。 しかし、今では、推古年間の大王(天皇)・厩戸皇子・蘇我馬子…
賀集八幡神社から南下し、南あわじ市賀集にある淳仁天皇陵を訪れた。私が史跡巡りで訪れた最初の天皇陵である。 宮内庁の管理下にあり、陵内に立ち入ることは出来ない。 淳仁天皇陵 第47代淳仁天皇は、天武天皇の第七皇子舎人親王の子で、即位前は大炊王と呼ばれていた。 在位は天平宝字二年(758年)から同八年(764年)までである。 第46代孝謙天皇の庇護を受けて出世した藤原仲麻呂は、早逝した長男の妻を大炊王に嫁がせた。 大炊王が淳仁天皇として即位すると、恵美押勝の姓を賜り、太政大臣となって権勢を振るった。 淳仁天皇陵 天平宝字八年(764年)、恵美押勝は、退位した孝謙上皇が寵愛した道鏡を排斥しようとした…
750年に入ると、天皇と藤原氏の間でさまざまな動きを見せるようになりました。特に権力争いを強めた要因として、道鏡(どうきょう)の存在があります。 ここでは、道鏡の人物像と孝謙天皇の関係性について紹介します。恵美押勝の乱も詳しく説明するため、天平時代の争いをしっかりと押さえましょう。 道鏡とは 道鏡の出自 道鏡と孝謙天皇の出会い 孝謙天皇の変遷 開眼供養の儀式 藤原仲麻呂の活躍 道鏡を寵愛する 恵美押勝の乱 光明皇后の死去 孝謙太上天皇と道鏡の圧力 たった1週間で失敗 道鏡と孝謙天皇のその後 孝謙太上天皇が称徳天皇へ 称徳天皇の崩御 まとめ 道鏡とは (※画像はイメージです) 道鏡は、天平時代に…
宮城県の多賀城碑を紹介する。碑文の中に登場する靺鞨を紹介する。次の流れで紹介していく。 ・多賀城碑・多賀城・碑文の内容・靺鞨国・豆知識~藤原氏と多賀城碑~ ■多賀城碑所在は宮城県多賀城市大字市川。奈良時代の8世紀頃にたてられた石碑。おそらく多賀城の改修を記念した762年頃の建立と考えられる。設置者の藤原朝狩が蝦夷平定を成し遂げた自身の功績を顕彰するために建造した。かつての多賀城の正門とされる南門から城内に入ってすぐの場所に建立されている。内容は・平城京や各国からの距離・大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)による724年の多賀城の設置・藤原朝臣朝狩(ふじわらのあそんあさかり)による762年の…
●歌は、「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」である。 石川県羽咋郡宝達志水町下石万葉歌碑(大伴家持) 20230704撮影 ●歌碑は、石川県羽咋郡宝達志水町下石にある。 ●歌をみていこう。 題詞は、「三年春正月一日於因幡國廳賜饗國郡司等之宴歌一首」<三年の春の正月の一日に、因幡(いなば)の国(くに)の庁(ちやう)にして、饗(あへ)を国郡の司等(つかさらに)賜ふ宴の歌一首>である。 (注)三年:天平宝字三年(759年)。 (注)庁:鳥取県鳥取市にあった。(伊藤脚注) (注)あへ【饗】名詞※「す」が付いて自動詞(サ行変格活用)になる:食事のもてなし。(学研) (注の注)あへ【饗】:国…
●歌は、「あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千年寿くとぞ」である。 石川県羽咋郡宝達志水町下石万葉歌碑(大伴家持) 20230704撮影 ●歌碑は、石川県羽咋郡宝達志水町下石にある。 ●歌をみていこう。 題詞は、「天平勝寶二年正月二日於國廳給饗諸郡司等宴歌歌一首」<天平勝寶(てんびやうしようほう)二年の正月の二日に、国庁(こくちょう)にして饗(あへ)を諸(もろもろ)の郡司(ぐんし)等(ら)に給ふ宴の歌一首>である。 (注)天平勝寶二年:750年 (注)国守は天皇に代わって、正月に国司、群詞を饗する習い。(伊藤脚注) 律令では、元日に国司は同僚・属官や郡司らをひきつれて庁(都の政庁また…
夏バテ(脱水症状)から回復したので、読みかけだった黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」(講談社)を一気に読了した。 (現在、Kindle Unlimitedで読み放題利用できます) 天風の彩王(上)藤原不比等 (講談社文庫) 作者:黒岩重吾 講談社 Amazon 天風の彩王(下)藤原不比等 (講談社文庫) 作者:黒岩重吾 講談社 Amazon この小説の藤原不比等(史)は、幼少期から魔性を帯びた美形であるばかりか、天才的な頭脳で学問を極め、人の心理を見抜き操ることにも長けた、恐ろしいほど優れた人物として描かれている。 高い能力の代償でもあるのか、他者への共感力や同情心は薄く、周囲の人間を駒として…
日本における合戦は、大半はこちらですからね。 内戦の日本古代史 邪馬台国から武士の誕生まで (講談社現代新書) 作者:倉本一宏 講談社 Amazon 取り上げられているのは、神話時代の『日本武尊』に付託した話、邪馬台国期から源義家に後三年の役まで。日本史区分で古代と言われる時期です。 これを読んでいくと、大規模な殺戮が行われるというのは、前九年・後三年の役まで少なく、そのほとんどが武力による小競り合いと話し合い、つまり和戦両用で問題解決を図っているということ。もちろん壬申の乱とか恵美押勝の乱とか、最終的に闘争相手を殲滅する形をとる場合もありますが、首謀者とその一族を抹殺するにとどまり、勢力丸ご…
私にはドライすぎる、白洲正子の語り口 近江山河抄 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ) 作者:白洲 正子 講談社 Amazon 近江の古寺のうち三井寺・石山寺に行ってみた。奈良・京都の寺社がインバウンド観光客であふれているのに比べたら静かだ。奈良や京都が古都として世界的に認知されているのに比べれば滋賀(近江)の位置は微妙だ。 歴史的にみれば、日本海側から渡来した渡来人が多く住んだことで、日本の王朝における朝鮮半島由来の部分はその多くが近江にあったのだろう。そのせいか、王朝が成立したあとも近江に都を作ろうという動き(大津京や紫香楽京)があったり、政変の際に近江の勢力を頼ってきて最後は近江で果て…
■ 今年の大型連休の初めは、岡山県和氣町にある、和氣町藤公園の「藤まつり」に訪れました。藤公園は、約7,000平方メートルの敷地に、幅7m、総延長500mの藤棚が置かれ、北は函館の藤、南は鹿児島県坊津の藤と全国46都道府県の著名な100種類以上の藤を集めていますが、沖縄県だけは、野生の藤が生息しないそうです。藤の花が見られ、その種類の多彩さでは、日本一の規模となる名所になっています。 和氣町と言えば、和氣清麻呂の誕生地で、1250年を記念して、昭和60年に藤公園が完成したそうで、和氣神社とも隣接しています。藤まつりは、ちょうど藤の花の見頃である4月下旬から5月上旬に開催されています。今年は、藤…
十一大明神神社から西に行く。南あわじ市市新の集落の南側には、南あわじ市特産の玉ねぎ畑が広がる。 木戸原遺跡の辺り この辺りは、古墳時代中期の集落の遺跡である木戸原遺跡が発掘された場所である。 三種の神器と同じ剣・勾玉・鏡を軟らかい滑石という石で真似た祭祀具や、大和王権が各地に配った鉄鋌が出土した。 大和王権の影響力を色濃く受けた遺跡である。 ここから南西の南あわじ市志知中島の集落にある大炊(おおい)神社を訪れた。 大炊神社 大炊神社は、淡路廃帝淳仁天皇ゆかりの地である。 5月4日の「野辺の宮 丘の松 事代主神社」の記事でも紹介したが、第47代淳仁天皇は、恵美押勝の乱に関連したとして孝謙上皇によ…
一葉塚から南に約300メートル歩くと、右手に公園のようなものが見えてくる。 淡路に配流となった第47代淳仁天皇が幽閉された場所とされる野辺の宮である。南あわじ市市十一ヵ所にある。 野辺の宮 淳仁天皇は、天武天皇の第七子舎人親王の子で、大炊(おおい)王と呼ばれていた。 叔母の光明皇后を後ろ盾とし、政権内で実力者となっていた藤原仲麻呂の推挙で、大炊王は天皇に即位したが、政治の実権は仲麻呂が握っていた。 仲麻呂は、淳仁天皇即位後、恵美押勝と改名し、皇室外で初の太政大臣に就任した。 野辺の宮鳥居 押勝は、自分の親類縁者を要職に就けて勢力を拡大したが、道鏡を寵愛する孝謙上皇を諫めたことで上皇の怒りを買っ…