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後鳥羽院

(社会)
ごとばいん

後鳥羽天皇後鳥羽上皇後鳥羽法皇。平安時代末期〜鎌倉時代初期の天皇、鎌倉時代前期の治天の君。治承4年(1180)〜延応元年(1239)。
最初は顕徳院と諡されたが、後嵯峨天皇の即位の時に諡を後鳥羽院と改められた。そのくだりについては後述の「後鳥羽法皇の呪い」を参照されたし。
頭脳明晰、運動神経抜群で勝負事にも滅法強かった。

天皇時代

後鳥羽天皇は安徳天皇の次代に当たり、その即位は平家追討中であった。三種の神器を平家に持っていかれてしまったため、後白河法皇の院宣を根拠に神器なしで即位。壇ノ浦合戦後に八尺鏡八坂瓊勾玉は戻るも、草薙剣は水没。次代の草薙剣が奉じられるのはさらに後の時代になる。

治天の君時代

後白河法皇の死後土御門天皇に譲位し、仲恭天皇の代まで治天の君として院政を行った。鎌倉幕府最後の源氏将軍・源実朝が死去すると承久の乱を起こす。しかし敗北し、言い分も通らず隠岐に流され、死亡した。承久の乱の敗因は、前述の通り優れた才能を持っていたゆえに大変な自信家で自惚れて戦況把握に失敗したためと言われる。

後鳥羽法皇の呪い

承久の乱後すっかり朝廷を掌握した幕府は「後鳥羽天皇系の即位は認めない」とし、天皇として後堀河天皇、治天の君として後高倉上皇を立てた。しかし後高倉上皇系の上皇、天皇はいずれも不遇な最期を遂げてしまっている。

後高倉上皇 治天の君に着くも二年足らずで崩御
後堀河天皇 子に譲位して治天の君に着いたが父と同じく二年ほどで崩御
四条天皇 宮中の人に悪戯をしようとして滑石を敷いたが、誤って転倒し幼くして崩御

これらは後鳥羽法皇の呪い*1ではないかと囁かれた。後鳥羽法皇は崩御後に一次、顕徳院と諡されたが、仁治三(1242)年後嵯峨天皇即位及び北条泰時の死去の際に「徳は怨霊を呼ぶ不吉な字である」として後鳥羽院と改められた。以降、徳の字を含む謚号を送られた天皇は一人もいない。

『新古今和歌集』

『新古今和歌集』の編纂を下命し、自らも親撰に当たった。流刑後も独自の切り継ぎによる『隠岐本新古今集』を作った。家集に『後鳥羽院御集』、歌論に『後鳥羽院御口伝』がある。

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*1:後鳥羽法皇は四条天皇の代に崩御。

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