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後花園天皇

(一般)
ごはなぞのてんのう

後花園天皇(応永二十六〈1419〉年ー文明二〈1470〉年)
第一〇二代天皇(在位正長元〈1428〉年−寛正五〈1464〉年)。
諱は彦仁。伏見宮家第三代の貞成親王の皇子として生まれる。第一〇一代の称光天皇には皇子がなく、大覚寺統による皇位奪取の動きもあり、称光天皇の死去直後に足利義教によって皇位継承者として擁立され、後小松院による後継指名を経て践祚する。
永享の乱で治罰綸旨を奏請され、足利持氏治罰綸旨を出したのを皮切りに、嘉吉の乱で足利義教が赤松満祐に暗殺され、新将軍の足利義勝は幼少であるうえに、本来将軍権力を代行すべき細川持之が権威を失った時に、赤松満祐治罰綸旨を廷臣の反対を押し切って発給し、室町幕府の危機を救う。その後も室町殿権力を代行して、大和国の国人の争いにも介入するなど、積極的に政治に関与する。
嘉吉三(1443)年、南朝の残党が内裏に押し入り、三種の神器を奪う(禁闕の変)。神器は長禄元(1457)年、赤松家の遺臣により奪還され、赤松家は赤松政則を擁立して復活する。
寛正の飢饉の時には漢詩を以て足利義政を諌めた、というエピソードがある。
寛正五(1464)年、後土御門天皇に譲位し、院政を敷く。
応仁元(1467)年には応仁の乱の勃発に伴い、室町亭に非難、戦乱の責を負って出家し、法皇となり、文明二(1470)年避難先の室町亭で死去。

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