江戸時代初期の天皇、江戸時代前期の治天の君。父は後陽成天皇。
父親ではなく徳川家康の意思により立てられたため、父親から冷たく当たられるようになってしまった。父上皇崩御後、近代まで悪帝として知られていた陽成天皇の加後号を贈ったのは子・後水尾天皇ではないかと考えられる。
応仁の乱以降の朝廷は貧窮の極みであったが、後水尾天皇が物心ついた頃には徳川家康の天下統一が完成しかけており、坊ちゃん育ちであったと思われる。
『禁中並公家諸法度』など天皇を抑えようと朝廷に深く介入する徳川幕府のやり方に徐々に不満を募らせ、紫衣事件の起きた年に爆発し、ついに明正天皇に譲位してしまう。『禁中並公家諸法度』は院政を認めていなかったため、時の将軍・徳川秀忠は院政を行わせまいとする。しかし秀忠の娘・東福門院に諭されてしまい、後水尾上皇は院政を始める。以降霊元天皇の代まで治天の君として君臨する。