「後奈良院」とも。室町時代後期の天皇の追号。 明応五年(1496)〜弘治三年(1557)。 後柏原天皇の皇子。正親町天皇の父。 在位は大永六年(1526)〜弘治三年(1557)。 在位中の年号は「大永」「享禄」「天文」「弘治」。
みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。 今回は「後奈良天皇」についての記事を書きます。 後奈良天皇 (出典:伊勢神宮歴史絵画館国史絵画集より) (註:この絵画の後奈良天皇はマスクのようなものをしていますね。般若心経を 清書されているので、このようにされていると思われます。神職さんでも、 神様の御本殿前にてお供えものをする時などに、神聖な神様に息がかからない よう、このようにマスクのような紙のものをして行事作法をされます) 後奈良天皇とは [生]明応5(1496).12.23. 京都[没]弘治3(1557).9.5. 京都第 105代の天皇 (在位 1526~57) 。名は知仁。後柏原天皇の第2皇…
伊射奈岐神社について 参道 境内社 訪れ方 おすすめ商品 伊射奈岐神社について 伊射奈岐神社は、楊本天満宮とも呼ばれ、文明年間に現在地に移転。寛正2年に興福寺大乗院主らが参拝し、天文22年に後奈良天皇も祈祷。創建年代は不詳だが、崇神天皇の時代に崇拝されたとされる。江戸時代には柳本藩主織田氏の庇護を受け、明治6年に柳本村社になり、翌7年に元の伊射奈岐神社と社名を戻した。 参道 国道169号沿いに位置し、崇神天皇陵の向かいにあります。 入口は西側になります。 境内社 伊射奈岐神社は広い境内に、伊邪那岐大神と菅原道真を主祭神とし、狛犬や狛牛が神前に置かれています。境内にはの各神社が祀られてあり、稲荷…
嘘か真か知らないが大寧寺の変の首謀者は三好長慶さんだという科学者もいる――というのが本当に発表されていてかんたんしました。 まあ真偽は私には分かりませんが、こういう黒幕とか悪役とかの立場であってもこの時代の三好長慶さんの存在感、他国への影響力等々が注目されるのはいいことじゃないかなと思いますし、最近は倭寇取締筋からの三好長慶さん評価もされている訳ですから、西国戦国史と畿内戦国史の交差がいっそう進展するといいんじゃないかなと思います。 東日本の活況を踏まえれば、西日本の戦国時代ってまだまだ盛り上げる余地があると思いますしね。 ↓一般向けの紹介文(「彩都山口」) https://sight-yam…
注:このサイトはブログという性質上、最新記事が常に上位に来ます。一気読みしたい方は記事番号殿下01から順にお読みください。 www.youtube.com さて、ボルタレンの宮殿下こと自称華頂博一(本名:岡崎祐一)が自信満々に語っている【伏見宮と華頂宮】の動画に対してツッコミを入れていこうと思う。バカはバカなりに勉強したようだが、所詮高卒の精神病を患う詐欺師妄想老人であるから、間違えて覚えてしまったり、意味を取り違えているところが多々ある。このフォーマットをやり始めてしまうと、バカ殿下の全動画に対して突っ込まないといけなくなるのでそこまではやらないが、たまたまYouTubeのおすすめに出てきた…
皆さんはもう初詣に行かれましたか? 三が日も終わりお仕事という方も多いのではないでしょうか。 今回は【熊本の初詣スポットはどこ?年始に訪れたいおすすめスポット】についてご紹介していきます。 まだ初詣に行かれていない方はぜひこの機会に熊本県の神社へお参りしてみてはいかがでしょうか。 熊本県の初詣スポットについて! 熊本城を眺めながら初詣ができる!【加藤神社】 アクセス方法 熊本市内で初詣といえばここ!【出水神社】 アクセス方法 神秘的な空間の中に佇むご利益たっぷりの神社!【幣立神宮】 アクセス方法 市民が多く初詣に訪れる人気のスポット!【健軍神社】 アクセス方法 初日の出スポットとしても人気!【…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 三二年テーゼ。昭和7(1932)年。 ・ ・ ・ 令和元(2019)年 あいちトリエンナーレ2019。 昭和天皇肖像画の写真を燃やす動画が日本の現代アートに、賛成する日本人が多数で、反対する日本人は少数であった。 昭和天皇は、歴代天皇の中で最も日本人に嫌われている天皇である。 ・ ・ ・ 日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。 ・ ・ ・ 日本天皇=日本国=日本民族=外国人帰化人。 ・ ・ ・ 2023…
12月10日の続き 前回、中国地方や北九州に君臨した戦国大名大内氏の最後の当主・義隆が足利将軍家を超えるような官位を得ていたことを書いたが、ではなぜそのようなことが可能になったのか、研究者の西田氏は史料から得られたこととして、義隆から朝廷への高額の献金をあげ、それによって朝廷の儀式が再興されたとしている。その例は、 ・天文3年(1534)後奈良天皇の即位礼の費用として20万疋(ひき)を献金。 ・天文6年(1537)途絶えている朝廷の儀式を再興する費用と推定される理由で10万疋献金。 ・天文3年から亡くなる天文20年(1551)まで毎年3000~4000疋を「今年の御礼」として定期的に献金。など…
泉龍寺とは アクセス 公共交通機関 路線バス 駅から徒歩 クルマ 行ってきました まとめ (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 泉龍寺とは 曹洞宗 中和山 泉龍寺は、神奈川県相模原市南区上鶴間本町八丁目の境川近く、町田市との境に近いところにある寺院です。 相模原仏教会さまの公式WEBサイトに縁起が載っていました。 全文についてはリンク先をご覧になっていただきたいと思いますが、 「中和田泉龍寺の開創は遠く四百有余年前、享禄年間」とのことです。享禄年間とは西暦に直すと1528年から1532年です。後奈良天皇の時代、室町幕府の将軍は第1…
上杉謙信を紹介します。 転載開始 https://joetsukankonavi.jp/kenshinkousai/chronology/・1530年1月21日、越後守護代長尾為景(ながおためかげ)の末子として、春日山城で誕生。・1536年、春日山城下の林泉寺に入り、名僧天室光育(てんしつこういく)禅師から厳しい禅の修業と文武の道を学んだ。 深い学識や厚い信仰心はこのとき培われたといわれている。 8月、謙信の兄・晴景(はるかげ)が家督を相続。また、この年の12月に父為景が病死。・1544年、近隣の武将たちが謙信を若輩とあなどり、攻撃を仕掛けられるが、栃尾城代本庄氏、三条城代山吉氏、栖吉城主長尾…
仙波東照宮の拝殿右から女坂を下ると、そこは小さな池と朱塗りの小さな太鼓橋が見えてきます。この太鼓橋は八ツ橋と呼ばれ、池の中央の小島に架けられています。そこに小さな社が祀られ、この一帯は仙波東照宮の葵庭園と呼ぶそうです。 小さな池ですが比較的綺麗な水を湛え小島を取り囲んでいます。小島には朱の明神鳥居が建てられ、その先に鎮座する社はいかにもの佇まいの弁財天厳島神社。大正6年出版の三芳野名勝図会に目を通すが創建時期については書かれていなかった。また、「喜多院東南にあり龍池弁天と云われ、龍神が棲み弁財天女と崇め、竹生島弁財天を模し祀る」とあった、これはここから東南に15分程の龍池弁財天を指しているよう…
名古屋で一番大きい(たぶん)「勅使池」に散歩に行く。一周は、約2.7km。野鳥観察施設がある自然豊かな公園。後奈良天皇が勅使を差し向けて造らさせた、なんだか由緒ある「ため池」。ゆっくり散策を楽しもうと思ったが、恐ろしい看板が散策路のあちらこちらに。スズメバチ被害のピークは8月〜10月。スズメバチの巣が最大になり、働き蜂の数も1年でいちばん多くなる時期。最多で2,000匹になる巣もあるそうな。あな恐ろしや。ご注意あれ。
2023/09/25・26新幹線と在来線を利用し武藏國一之宮二社を参拝してきました。 初日は川越市内を散策し、近隣の神社を巡る。名古屋を7時の新幹線で出発、一路川越まで電車で移動。現地では半袖では肌寒いかと長袖と天候の急変を想定し折り畳み傘まで持ってきたが意外に天気は良さそう。白くない冨士にはそそられないが、ふもとっぱらへキャンプに行く計画もあり、車窓から冨士を眺められるなんてのは我家にしてはとても珍しい、ふもとっぱら行くなら見えて欲しいなぁ。 新幹線と在来線を乗り継いで川越駅到着はほゞ10時。名古屋➡川越 この日は主に小江戸と称される川越の街を食べ歩き、時の鐘や利き酒、最寄りの神社を訪ね…
天と地と 下/海音寺潮五郎【1000円以上送料無料】価格: 880 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 1553年、景虎は武田領に侵攻するも、信玄は正面からの決戦を避けたまま第一次川中島の戦いは終り、景虎は上洛して将軍義輝と後奈良天皇に拝謁した。1554年再び川中島で信玄と対峙するが、諏訪御前の容体に気が気でない信玄は戦どころではなく、今川義元に仲介を頼み景虎に有利な条件で和睦する。 つかの間の和睦で国内が安定すると、しばらく収まっていた豪族間の領地争いが再燃する。理にならない理を振りかざし、わずかな領地を巡って家臣たちが争う。そんな状況に嫌気を指した景虎は、家臣を前に隠居・出家して高野山に籠も…
今回も京都府京都市の知恩院について。 その1では三門などについて述べました。 当記事では御影堂、阿弥陀堂などについて述べます。 御影堂(本堂) 三門をくぐって石段を昇ると、境内の中心部に巨大な御影堂(みえいどう)が鎮座しています。当寺の本堂に相当する堂です。 桁行11間・梁間9間、入母屋、正面向拝5間、背面向拝3間、本瓦葺。 1639年(寛永十六年)再建。「知恩院本堂」として国宝に指定されています*1。 正面の向拝は5間。中央の1間はやや広く取られています。 向拝が5間もあるほど大規模な仏堂は、京都市内でもあまり多くないと思います。 向拝柱は几帳面取り角柱。 柱上の組物は、出三斗と連三斗。 虹…
亡き夫さんが20年以上前に奈良の寺巡りをしていた旅日記を見つけ辿ってきました。 ほとんどが奈良の寺だったけど、東寺にも行っていたので、新幹線に乗る前に寄ってみました。 東寺 観智院 深草北陵 深草陵 東寺 京都駅に荷物を預け、東寺まではブラブラ歩いて15分ちょっと。 夫さんは東寺については、絵葉書やパンフレットを貼っただけでコメントはない。 多分飽きたと思われる。すごく夫さんらしい。 講堂の梵天(国宝)が気に入ったのかな 金剛宝菩薩・持国天・不動明王・帝釈天 ハガキを買ってはっているところを見ると、これらの仏像が気に入ったのかも。 なんとコメントするのか読みたかった・・・ 金堂と講堂の仏像を見…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 後期倭寇は、対馬・壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人・南蛮人であった。 ・ ・ ・ 2023年7月19日7:03 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「荒れる倭寇をやめさせよ! 特命をおびた中国人が目撃した「意外な日本」。 洋の東西を問わず、「隣国との関係」はいつも緊張をはらんでいる。日本にとって、隣の超大国・中国は常に脅威であり、中国人は尊敬と畏怖の対象だった。では中国人にとっての日本人は? 460年余り前、日中の緊張緩和の道を…