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岩崎弥太郎

(一般)
いわさきやたろう

「三菱」の創業者。天保5(1834)年12月11日、土佐うまれ。明治18(1885)年没。

一応「士」の家に生まれるも、4大身分の中の格付けがやたらと低い「地下浪人」〔ぢげろうにん〕の家だったため、屈辱的な差別に数多く遭い、身分制度を怨みつつ育った。
安政元(1854)年、江戸の儒学者の「奥宮慥斎」の元へ弟子入り、翌年には「安積昆斎」の『見山塾』に入塾。
しかし、父の弥次郎が酒席で狼藉、この飛び火を受けて息子である弥太郎が何故か“投獄”されてしまうという憂き目に遭い、ついに名字帯刀さえ剥奪され、学問どころではなく、引きこもって暮らす以外なかった。
所が、この事件が奇縁で、土佐藩参政の要職にありながら酒席で藩主一族の無礼を誡めたために逆に反感を買ってしまい、弥太郎と同じように蟄居していた大学者の「吉田東洋」とも知り合うことになる。
この際も一策を講じたためにより印象に残るに至り、復帰した東洋に引き立てられていく。
しかし文久2(1862)年に、「富国強兵」と「殖産興業」路線で張り切っていたこの吉田東洋は反対派に暗殺されてしまい、後釜に適任者が居らず、藩直営で専売品の「紙・砂糖・鰹節など」を売る『開成館』は資金繰りに行き詰ってしまう。そういう経緯で最終的に人選されたのが岩崎弥太郎であった。
『亀山社中』・『海援隊』の坂本竜馬とも知遇を得、ライバルとして・また時には協力し合い、社名も途中いくつも替えながら(開成館→大阪土佐商会→土佐開成社→九十九商会→三ツ川商会→三菱商会)、或いは又、「三井」や「日本郵便蒸汽船会社」などの競合や政略と激戦の火花を散らせながら、日本を代表する1・2の大会社・財閥へと成長させていった。《加来耕三『日本創業者列伝』p37》

つまり身分制度的に非常に差別されていた極貧の最下層の出身者がまさに“天下を取った”わけである。このコンプレックスは終生強く、石川七財とか川田小一郎といった三菱の重役を選定する折にも、「赤貧洗うが如き下級武士」の出身者を選んでいることで明らかだ。
明治18(1885)年の2月7日に亡くなっている。父譲りの酒徒であったから、定めし「肝硬変」か何かであろう。「吾が使いたる雇人は旧の如く使い呉れよ」と2回遺言して終に臨んだ。52歳だった。
政府内の庇護者であった大久保利通は暗殺され、次いで頼りにしていた大隈重信も失脚し、「三井+渋沢栄一+大倉喜八郎」が“三菱つぶし”のために作った『共同運輸会社』に対しても、運輸代金のダンピングだとか輸送時間のスピードアップ…といった基本原則に拘り抜いた上に、競合他社のM&A買収といった2段構えの戦略で勝ちを収めていったわけであるが、同時代の政権に毛嫌いされながら勝ち抜くということは並大抵ではなく、眉が濃く、髭も八の字にデーンッと構え、天下を睥睨しているような倣岸不屈の風貌は、これら激戦の“傷痕”と言えないこともない。

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