日本野球連盟元会長。全日本アマチュア野球連盟初代会長。
左投左打、選手としてのポジションは外野手。
1919年5月11日生まれ。岡山県出身。
台北一中から慶應義塾大学に進学。主将として早慶戦を演じた。
卒業後、鐘淵紡績(現・カネボウ)に入社し社会人野球で活躍。
引退後、社会人野球の審判員、高校野球の解説者となる。
1964年、日本野球連盟の役員に就任。
1984年、ロサンゼルスオリンピックより公開競技ながらも、野球を五輪の種目に導いた。
1990年、全日本アマチュア野球連盟を発足させ、初代会長に就任。
1992年、野球が五輪の正式種目となる。
1997年、日本野球連盟の会長に就任。その後、国際野球連盟(IBAF)の副会長に就任。
高齢ながらエネルギッシュに野球の国際化に向かって行動する姿は世界の野球界のみならずIOCの間でも有名であった。
同年、特別表彰として野球殿堂入り。
2000年のシドニーオリンピックからプロ野球選手の参加が解禁になると、プロ野球側に積極的な話し合いを持ちかけ、
1999年、ソウルで行われた第20回アジア野球選手権に8人のプロ野球選手を参加させた。
2004年のアテネオリンピックでは全員がプロ野球選手によるオールジャパンの編成をプロ側に要請した。
2005年2月、日本野球連盟の会長を退任。松田昌士を後任に立てた。
同年6月、IBAF副会長の座も辞任した。
彼にとって最後となった2004年の第75回都市対抗野球最終日、表彰式の中で挨拶を求められた山本は感極まり、
「都市対抗バンザイ! 社会人野球バンザイ!」と叫んだ。
2006年5月26日、東京都内の自宅で逝去。