第二次世界大戦期の大日本帝国海軍軍人。最終階級は中将。
東京都出身。
生没:1892年(明治25年)8月17日 - 1942年(昭和17年)6月6日
命名の由来は、楠木正成の幼名「多聞丸」から。
そもそも水雷、砲術出身の士官であり本来の専門は潜水艦だったが、発展著しい航空分野に注目し始め、海兵同期の大西瀧治郎らの勧めもあり航空関係に転向した。
またアメリカ駐在武官や留学の経験などから知米・避戦派として米内光政・山本五十六らの考え方に近かった。
その激烈な訓練指導ぶりから、「人殺し多聞丸」と呼ばれた。
数あるエピソードから、航空隊司令官としては積極的猛将タイプとして見られるが、勇猛さの中でも冷静沈着な判断力を失わない軍人であったと言われる*1
略歴
- 1912(明治45年) 7月 海軍兵学校卒業(40期)*2
- 1921(大正10年) 3月 アメリカ駐在武官、プリンストン大学入学
- 1924(大正13年) 海軍大学校甲種学生 ※少佐昇進
- 1928(昭和 3年) 2月 軍令部参謀兼艦政本部技術会議議員 ※同年12月に中佐昇進
- 1929(昭和 4年) 9月 ロンドン軍縮会議全権委員随員
- 1930(昭和 5年)11月 軍令部参謀兼第一艦隊参謀、戦艦「長門」に着任
- 1932(昭和 7年)11月 海軍大学校戦略教官 ※同年12月に大佐昇進
- 1934(昭和 9年) 8月 アメリカ大使館付武官(ワシントン赴任)
- 1936(昭和11年)12月 巡洋艦「五十鈴」艦長
- 1937(昭和12年)12月 戦艦「伊勢」艦長
- 1938(昭和13年)11月 第五艦隊参謀長 ※少将昇進
- 1940(昭和15)年 1月 第一連合航空隊司令官、航空母艦「飛龍」に着任
- 1941(昭和16)年12月 ハワイ真珠湾攻撃に参加。戦果を拡大すべく第三次攻撃*3を進言するも、艦隊保全がより重要と考えた南雲忠一司令長官に一蹴された。*4
- 1942(昭和17)年 6月 ミッドウェイ海戦参加、米軍機動部隊の空襲を免れた「飛龍」から2度にわたる攻撃によって米空母「ヨークタウン」大破(後、潜水艦により撃沈)させるも、第三次攻撃を前に飛龍も被弾。作戦能力喪失と判断するや速やかに総員退艦を命じ、自らは加来止男艦長と共に艦と運命を供にした。(享年50歳) ※6月5日付けで中将昇進