プロ野球指導者・解説者。
右投右打、ポジションは外野手。背番号は21→30→1→30番。
1896年7月10日生まれ、東京府(現:東京都)出身。
第三高校から日本中学、明治大学に進学。第8代主将として東京六大学野球リーグで活躍。
1936年、伊藤勝三の後を受け大東京軍の監督に就任。
ライオン軍となる1938年まで務める。
1939年、名古屋軍の監督に就任。
1950年、松竹ロビンスの監督に就任。
水爆打線を率いて同年、セ・リーグ初代優勝に導いた。
1952年、大洋ホエールズ監督に就任。大洋松竹ロビンスとなった1953年まで務めた。
1955年、NHKでプロ野球中継の解説者として活躍。
志村正順とのコンビで鳴らし、独特の間を醸し出した「小西節」で知られた。
野球解説者の草分け者として知られる。
1971年、野球殿堂入り。
1977年6月9日、逝去。
父はロシア文学者の小西増太郎。