1884-1966。ドイツ文学者、文芸評論家。
東京大学在学中に夏目漱石の知遇を得て、高浜虚子、寺田寅彦らとともに「木曜会」に出席。生涯漱石を敬愛し、全集刊行に従事し、その文学性を考究。世阿弥や芭蕉の研究家としても知られる。
明治44年「中村吉右衛門論」を発表したことで、演劇評論家としても名を馳せた。二代目左團次の自由劇場の批評をめぐって小山内薫と論争した。大正5年の漱石の死を機に演劇評論からは離れたが、終生、初代吉右衛門と親交を結んだ。東京音楽学校の校長を昭和21年から24年まで勤めた。
神保町で古本を購入。いつ行っても必ず買う本があるのが神保町。 『漱石俳句研究』(寺田寅彦・松根豊次郎・小宮豊隆著)。漱石の俳句が好きなので。 漱石俳句研究 Amazon 長谷川伸『戦国行状』。今週水曜日の幸福塾で長谷川伸を取り上げるので。 戦国行状 (1956年) (大衆小説名作選) 作者:長谷川 伸 同光社 Amazon 『一平全集』第5巻(先進社)。岡本太郎研究のため。父が一平。 23-4-7『 一平全集 全15巻揃い』昭和4年 先進社 岡本一平 岡本かの子 岡本太郎 ノーブランド品 Amazon 天婦羅「はちまき」での夫婦の食べ歩きの昼食。 創業6年。江戸川乱歩が愛した店。「てんどん」1…
浜松の時代舎で、前回の今田謹吾が編集し、それに花森安治も関わっていたのではないかと推測される生活社の「日本叢書」を見出した。これは初めて目にする「叢書」にして、堀口大学の詩集『山嶺の気』である。「叢書」といってもB6判並製三〇ページのもので、パンフレット、もしくはブックレットの印象が強い。刊行は敗戦の三カ月後の昭和二十年十一月で、初版五万部、定価は八十銭となっている。既刊として、二十五冊が挙がっていることからすれば、九月頃から刊行され始めたのではないだろうか。その既刊リストを示す。 1 中谷宇吉郎 『霜柱と凍上』 2 古畑種基 『血液型』 3 高木卓 『郡司成忠大尉』 4 谷川徹三 『雨ニモマ…
慶応義塾大学三田図書館旧館八角塔脇の小道を入っていくと・・・(入っていいんだろうか?と、一瞬躊躇してしまうような裏道感のある所ですが・・・入っていいんですw) 何やら小高くなっている所があります。 ここは「文学の丘」(丘?っていうか、石が積まれ土がこんもり盛り上がっているだけのような・・・いや、でも丘なんですw)。慶應ゆかりの文人たちの、文学碑や石像の並んでいる丘です。 まず目に入ってくるのは、吉野秀雄(明治35.7.3~昭和42.7.13 歌人・書家)の歌碑。 図書館の 前に沈丁咲くころは 恋も試験も 苦しかりにき 群馬県高崎出身の吉野は、『福翁自伝』(福沢諭吉 明治31.7.1~32.2.…
池袋の東京芸術劇場で「舞台芸術・演劇祭」が二日間にわたり上演された。主催は東京都教育委員会と東京都特別支援学校文化連盟」だ。 音楽関係の仕事をしている息子が、「都立永福学園・演劇部」の活動を15年程手伝っているので、何回か見る機会があった。 クリスマス・イブで池袋はすごい人出だった。 今日の出し物は「機械仕掛けのヘッドドレス」。毎回感じることだが、特別支援学校の生徒たちが、優れた脚本に沿って、歌と踊りのパフォーマンスをつくり上げていることに、感動する。 劇場でやっていた写真展「この時代ーこの一枚」をのぞく。 終了後は、妻と息子と3人でコーヒーを飲みながら語り合う。息子は『自省録』(マルクス・ア…
六本木の「MetaMoji」本社でミーティング。 浮川和宣社長、初子専務、開発担当者らとの打ち合わせを2時間。このお二人は、日本語ワープロ「一太郎」を開発したジャストシステムの創業で有名な夫婦だ。以前、「図解マスター」というソフト開発のお手伝いをしたことがある。 その後、料理屋「橘」で絶品の創作和食と日本各地の銘酒を堪能しながら、話が弾んだ。画期的なプロジェクトが始動する。 「一煎」「先付」「向付」「椀盛」「造り」「八寸」「焼物」「温物」「食事「甘味」「薄茶」。 ーーーーーーーーーー 「名言との対話」12月14日。森田草平「自分は永遠に漱石の弟子であり、自分自身は一生、師と呼ばれるような人間に…
■今日買った本。計0円。 a)上勝クリスマスマーケットにて。 1・ヴェンセスラオ・デ・モラエス、花野富蔵訳『日本精神』講談社学術文庫 ¥0 2・寺田寅彦、小宮豊隆編『寺田寅彦随筆集 第五巻』岩波文庫 ¥0 3・若松英輔『悲しみの秘義』文春文庫 ¥0 *** a)のイベントにて、くるくるマーケットという名称で、不要品の持ち寄りと持ち帰り自由なブースがあった。そこにて3冊の文庫本を入手。私自身も、家から不要な本や紙ものを持ち込んだ。誰か興味を感じて貰ってくれる人が現れたら良いのだが。 1: 2: 3:2024/1/31読了。最初タイトルを『悲しみの秘儀』だと勘違いしていたが、一章を読んで"秘義"だ…
392.『道草』先行作品(7)――『思い出す事など』 漱石は旅行記に向かない作家である、と前の項(本ブログ道草篇16)で述べたが、(12月1月問題という)季節の連想でいえば、これは漱石の文学的出発点が俳句にあることと関係していよう。俳句は説明を嫌う。俳句は(本ブログ道草篇6でも引用した寺田寅彦へのレクチュアによると)扇の要(集注点)を書くものである。百何十度だかに開いた扇の扇たる部分は、読者に想像させる。想像させないまでも、その広がった部分はわざと書かない(詠まない)。 それが漱石(に限らないが)の小説のリズムを生む。吾輩に名前が付かない理由を書かない。坊っちゃんの無鉄砲が父親譲りなのか母親譲…
河盛好蔵編『近代文学鑑賞講座21 翻訳文学』(角川書店 1969年) これも翻訳文学についての概説書。後半に、代表的な翻訳論を抜粋のかたちで掲載しているのが特徴です。前半は、編者による序論と作品鑑賞となっており、作品鑑賞の部では、随筆、詩、小説、戯曲のジャンル別に、実際の翻訳作品の一部とその解説がありますが、問題は、その解説が翻訳についてより、作品そのものや作者についての解説になってしまっていることです。 翻訳論のなかで、いちばん感心したのは、萩原朔太郎が詩の翻訳について語った文章。冒頭、芭蕉の「古池や・・・」の英訳についての小宮豊隆の論評を引用し、古池とpond、蛙とfrogのあいだのそれぞ…
朝から昼にかけて雨がポツポツ 昼過ぎから晴れる 風がかなり強い 最低6℃最高15℃ 10時に家を出るまで布団にくるまる 歯医者にメンテンナンスに向かう 今回は店舗横の駐車場に空きがあったので楽 前回から始める前に血圧を計測することになっているので今回もはかる、久しぶりだがちょっとやばい数字になっていてビビる まあ、歯医者に行くだけで緊張するのは仕方がないと思うんだ 歯茎は下がっていないと言われたので安心する つるつるになって終了 フッ素を塗布したので30分ほど飲食できない 本屋へ 小宮豊隆の漱石一門の随筆が中公文庫から出ていたが今回はパスする 買うものはなかった 横のラーメン屋で和え麺400g…
2023年11月20日(月) ゴジラの流れから伊福部昭のオーケストラ曲を聴いている。聴けば聴くほど、「これは絶対ストラヴィンスキーやショスタコーヴィッチから影響を受けているだろう」と感じた。変拍子とか打楽器の使い方とか。 そこでちょっと調べてみたら、以下のような記事を見つけた。 https://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BC%8A%E7%A6%8F%E9%83%A8%E6%98%AD > 旧制中学時代に三浦淳史(後の音楽評論家)と知り合い、伊福部曰く、彼に「音楽をやるなら作曲をやらねば意味が無い」と「そそのかされ」、海外から取り寄せたレコード・楽譜などを基に独学で作曲の勉強…
読書ノート #100, 2023 ■コーヒー哲学序説 (寺田 寅彦) Takahiro コーヒーを五感で愉しむ ※ひとことPOPは書籍からの学び・気づきを想起するための個人的備忘です(^^) 2023.10.9 読了|Audible|2023年 100冊目
コスパだのタイパだのと効率を迫られる世の中だから、余計に思いが強まるのだろう。行き当たりばったりの旅にあこがれる。お手本は内田百けん(ひゃっけん)の『特別阿房(あほう)列車』の心である。「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」 內田 百閒(うちだ ひゃっけん、1889年〈明治22年〉5月29日 - 1971年〈昭和46年〉4月20日)は、日本の小説家、随筆家。本名榮造󠄁。別号は百鬼園(ひゃっきえん)。号の「百閒」は、故郷岡山にある旭川の緊急放水路の百間川から取ったもので、当初は「百間」と表記していたが、後に「百閒」に改めた。 生涯 生い立ち 1889年(明治22年)5…
2015年6月10日発行 日本語の障壁 寺田寅彦が小宮豊隆に「われわれ科学の方では何でも欧文で発表する。文科の人はどうして日本語で書くのか」と訊ねたことがある。閉鎖された世界は腐敗するというお決まりのコースを日本の文科系学術はたどりつつある。オリジナリティ第一である。 言文優劣 声の表現力は文字よりずっと大きい。 求敵主義 敵のないのはたいへん危険だということに気づかない。しっかり生きるには強敵が必要である。 自由・不自由 不自由は自由への近道。不自由な人ほど自由になりやすく、自由な社会ほど不自由な人間が多くなる。 転がる石 “転がる石は苔をつけない”は、住まいや転職を転々と変える人間は成功し…
蝉の声がにぎやかな季節になると思い出されるのは松尾芭蕉の名句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」だ。『奥の細道』の中でも秀吟の句として知られているこの句は、松尾芭蕉が元禄2年5月27日(1689年7月13日)に出羽国(現在の山形市)の立石寺(山寺)に参詣した際に詠んだ句だ⬆。芭蕉に同行した弟子の河合曾良が記した『随行日記』では、 「山寺や石にしみつく蝉の声」と記されている。ところで、この句にある岩にしみ入る蝉の声のセミの種類は何だったのか。1926年、歌人の斎藤茂吉は、この句に出てくる蝉についてアブラゼミであると断定し、雑誌『改造』の同年9月号に書いた随筆の中で発表している。ところが、これをきっかけに…