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宮崎滔天

(一般)
みやざきとうてん

明治の国士、革命家。本名宮崎寅蔵。

略歴

1871年(明治3)熊本県に宮崎政賢の八男として生まれる。
15歳で徳富蘇峰の大江義塾に入学以降、同人社、東京専門学校(現早稲田大学)
熊本英学校、長崎カブリ共和学校と多彩な遍歴をもつ。
常に社会の不合理に頭を悩ませ続け、1891年(明治24)アメリカ留学を企てたが、兄、彌蔵の諌止と彼の「革命的アジア主義」によるアジア解放の計画 を告げられ、同志となる。
兄、彌蔵が横浜で没した後、彌蔵の同志であった陳少白を通じて寅蔵は中国の革命家、孫文と初対面を果たす。
当初、寅蔵は孫文を大陸風の豪傑と想像していたが、会ってみると似ても似つかない
華奢(きゃしゃ)な男であった。
寅蔵は少なからず失望したが、孫文が一度口を開くと その革命にかけた情熱、気迫に圧倒され、寅蔵はこの初対面以降、日本人同志として孫文に革命の夢をたくし、生涯を革命にかけることになる。
1900年(明治33)孫文が恵州で挙兵を計画する。
これにぱ寅蔵(滔天)をはじめとする日本人の「大陸浪人」が多数参加していた。が、あえなく失敗。
寅蔵(滔天)はこの失敗ののち突然、浪曲師(ろうきょくし)になる。
この突然の転身の原困は詳しくは判明していないが、孫文ら革命派への資金援助のため生活に困窮したとも、 大陸浪人間の軋轢(あつれき)のためともいわれる。
浪曲師となった寅蔵(滔天)は「浪花節中興の祖」と呼ぱれる桃中軒雲右衛門に弟子入りし、桃中軒牛右衛門と名乗り自作の「落花の歌」を唄い、全国を巡業してまわった。
同時に、自叙伝「三十三年之夢」を出版。
しかし、この「三十三年之夢」が思いも寄らない歴史の流れを作り出すことになる。
「三十三年之夢」は寅蔵(滔天)の生誕から浪花節語りになるまでを描いたものだが、この本の孫文についてかかれた部分が「孫逸仙」という題で漢訳された のである。
これにより中国大衆に「革命家 孫逸仙」の名が知れわたり、革命を志す者たちが孫文のもとに集結し始めるのである。
そして、1905年(明治38)寅蔵(滔天)、萱野長知らの尽力により孫文と後に「孫文の右腕」と呼ぱれる軍人肌の黄興、そして「国学大師」と呼ぱれる 学者の章炳麟の三派を糾合し「中国同盟会」を結成することに成功する。
これにより、それまで別々の行動をしていた革命派は一本化され、時代の流れは加速してゆく。
そして、1911年(明治44)10月10日、武昌で革命派の挙兵が起こる。
「辛亥革命(しんがいかくめい)」の勃発である。
しかし、袁世凱(えんせいがい)による帝制の復活、諸列強による圧カと、辛亥革命の前には大きな壁が立ちはだかっていた。それでも寅蔵(滔天)は孫文を支援し続ける。
そして、孫文はこの私心のない義侠にあつい寅蔵(滔天)を信頼し続けた。
そして、1922年(大正11)寅蔵(滔天)は52歳の生涯を閉じる。
近代国家を構想した思想家たち (岩波ジュニア新書)

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