5章日本国際法学の推進者 織田萬 安達峰一郎と同期。昭和20年5月25日の東京空襲で死亡。昭和15年西園寺等に推薦され枢密顧問官の補欠になったが、近衞首相が織田の天皇機関説が祟って反対。 信夫淳平 ご子息の清三郎氏が後藤新平伝を書いているので、多少知っている。有賀長雄の弟子。本書著者の一又氏とは交流があったようで、信夫の弟子の死で、出版祝いなど祝賀をする人物がいなかったこと。3歳年少の立作太郎に師弟の礼を尽くしていたこと。1939年の上海旅行でプラベートの話をしたことなどが書かれている。四人の息子の中二人(満二郎、墺四郎)が自殺しており、そのことかもしれない・・ 遠藤源六 日露戦争時、海軍大学…