一般的に、徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物のこと。
その中でも儒教の聖人仏教の聖人キリスト教の聖人イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、サンテリアなどの宗教の聖人があげられる。主に特定の宗教・宗派の中での教祖や高弟、崇拝対象となる過去の人物をさすことが多い。日本語では元来は儒教の聖人のことであり、次に仏教での聖人のことであった。
「師弟不二」よりも酷いインチキ法門と言えば「人間革命」だろうな。創価公式によると「人間革命」とは、自分自身の生命や境涯をよりよく変革し人間として成長・向上していくことらしく創価思想を凝縮した言葉だそうだが、勿論「人間革命」などという言葉は御書には書いていない。御書に書いていないどころか創価オリジナルでもない。創価における「人間革命」の初出は昭和24年8月の戸田城聖会長の巻頭言(戸田城聖全集第1巻)である。 この「人間革命」は政治学者であり東大名誉教授だった南原繁氏のが初めて使った言葉である。その内容を一部抜粋すると「人間そのものの革命「人間革命」を成し遂げねばならぬ。われわれは単に政治的或は社…
第二 「出広長舌(すいこうちょうぜつ=広長舌を出だしたもう)」の事 御義口伝に云わく、「広」とは迹門、「長」とは本門、「舌」とは中道法性である。十法界は、皆ことごとく妙法の功徳であるから「広」といい、竪に高いところから「長」というのである。「広」とは三千塵点より已来の妙法の意であり、「長」とは五百塵点より已来の妙法ということである。この三つは、それぞれ違った観点であるが、同じく「広長舌」のあらわすところの意義である。 <講義より> 大聖人は、この広長舌ということについて、観心の立場より「広」とは横に、空間的に広い、すなわち十法界を網羅するとの意で、迹門をあらわし、、「長」とは、竪(たて)に、時…
いま創価学会は「本尊にまどっている」状態。その一番最初の攻撃は、この裁判であった思う。 Mさんとの対話の続き② ───Mさんは、創価学会と戦ってきました。それも本部職員(民主音楽協会)に在籍しながら、というのがすごい。よくやりましたね。しかも、「蓮悟空」というペンネームで創価学会批判の出版もしていました。 「ずいぶんといやがらせをうけたよ。後に除名になったけれどね」 ───話題になったのは、巨大な宗教団体である創価学会を相手取って裁判をしたこと。時間もお金もかかったでしょう。 「そうだなあ。裁判は10年以上。費用は3億円以上はかかったよ」 ───うわあ。それはすごい。その資金はどうやって捻出し…
神力品八箇の大事第一 「妙法蓮華経如来神力」の事 【天台は】文句の十に云わく「『神』は不測(ふしき=不可思議)に名づけ、『力』は幹用(かんゆう=木の幹のような力強い働き)に名づく。不測(ふしき)は則(すなわ)ち天然の体(=無作の三身)深く(深遠である)、幹用は則ち転変の力(万物を生滅、変化する根源の力)が広大であることをあらわす。この中で、(妙法蓮華経の)甚深の法を付属するために、十種の大力を現じたので、『神力品』と名づけられたのである」と釈している。 御義口伝に云わく、この「妙法蓮華経」は釈尊の妙法ではない。既にこの品(神力品)の時、上行菩薩に付嘱されていたからである。 総じて、妙法蓮華経を…
ココットを卒業して、3ヶ月が経ちました。 今年はとにかく、変化の年だと思います。 20年間勤めた、古巣を飛び出して勇気ある一歩を踏み出す事ができました。 この一歩が自分にとって大きかったです。 今まで、信心を地道にやってきた一番の功德でした。 最近になって、本当の信心の功德が何なのかやっとつかむ事が出来たような気がします。 日蓮大聖人、日興聖人、牧口先生、戸田先生、池田先生、 偉大な生涯の師匠達に、報恩感謝の毎日です。 御書をとにかく、身で読むこと。 これにつきます。 毎日、御書を拝読していますが 少しだけ、日蓮大聖人のお心を拝する事ができたのかもしれません。 荷物の積み降ろし作業 レストラン…
今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二十八日より今年弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり、此れ即母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり 今月は大聖人の立宗の月にちなんで『諫暁八幡抄 』の御文を御講にて拝読しました。本抄は弘安3年12月に身延において認めれらた御書で総本山大石寺に御真筆があります。日顕上人は御真蹟の末尾に「建武第三丙子六月六日読誦し奉り畢んぬ日道判」 と、日道上人の御筆跡で認められていることを示されたあと、「この書き入れは、御書を心肝に染めよ、との日興上人の指南を基もといとして御書の拝読が種々の…
第二十六 慈悲の二字は礼拝の住所の事 御義口伝に云わく、不軽礼拝の行は「皆当作仏(皆当に作仏すべし)」と教えているので慈悲である。既に(上慢の四衆によって)杖木・瓦石をもって打擲されても、「而強毒之(しかも強いてこれを毒す)=(しいて折伏)」するのは、慈悲より起こるのである。「仏心とは、大慈悲心のことである」と説かれているので、(不軽の)礼拝の住所は慈悲であるといえる。 第二十七 礼拝の住所は分真即の事 御義口伝に云わく、菩薩は(人を救っていく働きであるから)分真即の位と定められる。不軽はこの分真即の位に立って、理即の凡夫を礼拝した。これによって、(人々は)理即の(荒)凡夫であるから、この(皆…
最近では各宗派の僧侶がSNSやYouTubeといったネットで様々な活動をしているが、その中に『ぶもっく和尚の法話』というYouTubeチャンネルがある。大石寺や日興上人の話をしたり動画に【鶴丸】が映り込んでいたから閲覧した当初は日蓮正宗の御僧侶が運営しているのかとも思った。でも正宗の御僧侶がYouTubeやっているなんて聞いたことないし正宗では【和尚】という言葉は使わないから変だなぁって思っていたら正体は正信会(任意団体)の僧侶だった(しかも教学部長らしい)ので納得した。このぶもっく和尚だが最初は動画をアップするだけだったのだが収益が上がらないからなのか「有料ファンクラブ会員」の募集を開始した…
【📸写真に映られる…🏳️🌈御神仏】 〖実写🖼️寫眞館〗御訪問に感謝!! 💝午後活∻〖🙏日蓮大聖人〗由来の清流に薄暗い中🚶向かう途中…《🌊洗足流れ》を塞(ふさ)がれた蓋(ふた)に【⚡感得(かんとく)⚡】長年の🌀風化作用🔆白華現象で発見不可能??状態で【🙏明王様🔥】出現!!との有り難い出逢い【御守護】に感謝!!です。 🧑🚒私の前に出現される【🏳️🌈仏様;🏳️🌈神様】どうか〖👨👩👧👦人々に憑依(ひょうい)〗して苦しめる…【👻霊障(れいしょう)】を💪最大の法力💪で消滅させて下さい。お願い申し上げます。 🖼️画像クリックして〖別ウインドウ〗でも御閲覧ください。 【🌈摩訶不思議の世界🌈】その…
孔子、ブッダ、ソクラテス、イエス、キリストのいわゆる四大聖人は、仁やアガペーなど近くにいる人間との関係、または国家を重視した😁 明日『伊達政宗』更新予定。
創価退会に際して学会員の家族の存在が大きな障害になっている方は大勢いると思います。家族による信教の自由への妨害は宗教二世問題として創価に限らず新興宗教団体に共通する問題になっています。私の知人の創価員にも家族と諍いを起こしたくないという理由で創価退会を躊躇っている人もいるし、なかには退会すると離婚をすると配偶者から脅迫されている人もいます。結論から言えばそのような親や配偶者から脅迫や虐待を受ける可能性がある人は無理に退会する必要はありません。親や夫(妻)だっていつまでも子供や妻(夫)を押さえつけておける力がある訳じゃないですからいずれ必ず退会のチャンスが巡ってきますからそれまではなるべく創価の…
私は、令和6年(2024)2月16日、大阪にある出版社・風詠社の協力を得て9冊目の本を出版しました。原稿を書き上げるまでに要した年数は約2年。本書で私が最も書きたかったことは5つあります。 第一は、日蓮大聖人の「神天上の法門」とは何かについて、分かりやすく解説したかったことです。この法門は、日蓮大聖人の国家諌暁の書「立正安国論」の精髄だからです。即ち、大聖人は地球上に三災七難がおこる根本原因は悪法の流布にある、と喝破し悪法の一凶を禁断せよ、と獅子吼されました。禁断とは具体的に言うなら、悪法の布教活動を止めさせることであり、活動の原動力となる布施を止めることであります。そして、正法を流布すること…
先月の御登山の帰りに少し遠回りして内船寺を見学してきました。大石寺から車で約1時間の内船寺は山梨県南巨摩郡南部町にある日蓮宗の寺院です。四條金吾頼基が建治3年(1277)に邸内に三間四面の持仏堂を建立したのがその始まりで、弘安8年(1285年)に自邸を改めて寺として四條山正住坊と称したそうです。その後移転を繰り返し今の地に落ち着いたとされていて寛政年間に一度、安政年間に二度の火災に遭い、現在の本堂・庫裡は1855年(安政2年)に再建されたもです。山間の小さな寺院なので境内を見て回るほどでもないですが、ここに立ち寄ったのは四条金吾と日眼女夫妻の廟所を見たかったからです。他にも見ることはできません…
世相閻魔帳90「顕正新聞」令和6年4月5日号 前回の本コラムでは、信者の大幅減少で凋落の一途を辿っている日蓮正宗(宗門)の悲惨な実態や迷走ぶりを紹介した。 ことに宗門の渉外部長・梅屋誠岳が住職を務める「久遠寺」(神奈川県横浜市)の「青年部座談会」において、大学生か新社会人くらいの年齢の信者数名と僧侶とで「仏道修行実践かるた」なるもので遊んでいたこと、また同かるたの低レベルの読み句に対し 「宗門の余りの低次元・幼稚ぶりに呆れ果てた」 「浅井先生の『広布最終段階に御奉公させて頂くのは、御遺命を守護し奉った顕正会以外には、断じてあるべくもない』とのご指導を強く実感した」 との声が聞かれた。 今回は、…
日興上人が大聖人の御遺骨を奉持して身延に入山したのは弘安5年10月25日ですがその後、弘安8年に日向が身延に入山すると身延は謗法と化しついに日興上人は身延を離山することになります。(日興上人の身延離山史については過去記事をお読みください)日興上人は正応2年に身延を離山し富士河合の御養家に滞在します。南条時光は早速身延を離山した日興上人を南条家の持仏堂(現在の下之坊)にお招きし同年3月に日興上人御一行が南条邸に到着するとそこから半里ほど北に広がる四神相応の地「大石ケ原」の寄進を申し出ました。こうして同年秋に大石寺創建の工が始まりました。工事は着実に進み正応3年10月12日に十二間四間の大坊が完成…