1533年〜1587年 戦国時代のキリシタン大名である。父は有馬晴純で有馬義貞の弟。洗礼名はバルトロメオ。 1538年に肥前の有力豪族であった大村純前の養嗣子となった。1563年にキリスト教の宣教師から洗礼を受け、日本最初のキリシタン大名となった。領民に信仰を強制させたり寺社を破壊したりと過激な信仰を行っていた。
安土桃山時代の出来事を年表にまとめた。 安土桃山時代 は 日本の歴史の時代区分の一つである。 前は 室町時代 後は 江戸時代 関連記事 安土桃山時代の概要 安土桃山時代の文化 安土桃山時代の出来事 1557年 (弘治3年) 正親町天皇 即位 1568年 (永禄11年) 9月 織田信長 が 足利義昭 を奉じて 上洛 1568年 (永禄11年) 11月 足利 義昭 15代将軍に 1569年(永禄12年) ルイス・フロイス 来日 1570年 (元亀元年) 石山合戦 1571年 (元亀2年) 比叡山焼き討ち 1573年 (元亀4年) 7月槇島城の戦い 1573年 (天正元年) 9月 一乗谷城の戦い 1…
キリスト教弾圧の地「西坂の丘」で、日本人信徒20人と外国人宣教師6人が処刑されました。それは、豊臣秀吉がキリスト教を禁止したことによります。秀吉がキリスト教を禁止したのは、日本人が奴隷として海外に売買されていたからです。16世紀に、イエズス会は各地に宣教師を派遣し、ポルトガルの商人も貿易を求めて海外に渡航。東南アジアでは、ポルトガル商人による人身売買が行われ、売買された人々は奴隷としてポルトガルに送られ、転売されていました。キリスト教の布教と貿易はセットでした。 秀吉の時代に、日本人奴隷が船に積まれ、ヨーロッパに連行される記録が『九州御動座記』』にあり、 日本で得た金・銀を船に積み込み、母国へ…
きょうのご近所風景印・大村荒瀬郵便局郵便局の近くにある大村純忠史跡公園が描かれています。大村純忠(1533〜1587)は日本最初のキリシタン大名で、晩年を過ごした館跡が史跡公園になっています。2024/03/18/月#風景印 #大村荒瀬郵便局 #大村純忠 #大村市#きょうのご近所
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ シン・鎖国論作者:山岡鉄秀方丈社Amazon ・ ・ ・ 2024年3月18日 YAHOO!JAPANニュース WANI BOOKS NewsCrunch「1571年「日本人奴隷の買い付け禁止令」が出されたほどの悲惨な歴史 1571年「日本人奴隷の買い付け禁止令」が出されたほどの悲惨な歴史 15~16世紀、当時の日本がアフリカや中南米諸国のように国を滅ぼされず、今日まで独自の文化・伝統を保持できた背景には軍事力、そして徳川家康の外交方針の転換があった。しかし、その期間に奴隷として売…
隠れてもいなければ、キリスト教徒でもなかった! オラショ(祈り)や諸行事に接し、日本民衆のキリスト教受容の実像に迫る。 ●宮崎 賢太郎:1950年、長崎市生まれ。東京大学文学部宗教学宗教史学科卒業。同大大学院人文科学研究科宗教学宗教史学修士課程中途退学。2016年3月、長崎純心大学人文学部比較文化学科教授を退官。現代も生きるカクレキリシタンの末裔たちの信仰世界を明らかにすべくフィールドワークを行い、日本人のキリスト教受容の歴史を研究している。 隠れキリシタンが信じていたものはキリスト教ではない。本書の核心を一言でいうとそうなる。 平戸、五島列島、長崎などに今も暮らして信仰を守り続けている、カク…
島津家久(しまづいえひさ)の戦績をまとめてみた。 島津家久は四兄弟の末っ子である。通称は「中務大輔」「又七郎」。兄に島津義久(よしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)がいる。 この兄弟の中では島津義弘の知名度が圧倒的に高い。「戦場の鬼」というイメージだろうか。だが、島津家久の戦績は、この兄をも越えるかも。 ちなみに、『信長の野望』シリーズをはじめとするゲームの中では、島津家久の戦闘力がかなり高く設定されている。戦国時代好きには、それなりに知名度があると思われる。 島津家久の活躍が目立つようになるのは、永禄10年(1567年)からの菱刈(ひしかり)氏攻めより。島津氏は菱刈氏を降した…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 親鸞が嘆いたように、日本人の心の闇は救いようがないほどに罪深い。 日本人は心優しは、ウソである。 現代日本人は、歴史が理解できない。 日本人は歴史が好きは、ウソである。 ・ ・ ・ 完訳フロイス日本史 12 大村純忠・有馬晴信篇4 (中公文庫 S 15-12)作者:ルイス フロイス中央公論新社Amazon ・ ・ ・ 1579年 豊臣秀吉は、キリスト教弾圧として、宣教師や信徒ら26人を長崎西坂の丘で十字架に処せられた。最年少は12才だった。 キリスト教徒は、豊臣秀吉をサタン・悪魔と…
島津氏は、元亀2年(1571年)に島津貴久(しまづたかひさ)が没して代替わりをする。跡を継いだのは長男の島津義久(よしひさ)。そして、次男の島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)、三男の島津歳久(としひさ)、四男の島津家久(いえひさ)らが兄を支える。 この四兄弟の時代になって、島津氏はものすごい勢いで支配領域を広げる。短期間のうちに九州のほとんどを制圧し、そして天下人となった豊臣秀吉と対峙することに。……その過程をたどってみる。 島津の四兄弟 島津義久 島津忠平(島津義弘) 島津歳久 島津家久 島津包囲網 肝付が動く、鹿児島湾岸の戦い 伊東も動く 加久藤城の戦い 木崎原の戦い 大隅の制圧 小…
旧い話。これは戦後間もないころの悲劇だ日本売春婦の通称名は「からゆきさん」行き先は、支那・香港・新嘉坡・比律賓・ボルネオ・インドネシア・Thailand、これが東南亜細亜方面欧米は米・ソ連・阿弗利加・欧羅巴など外人はこの女性たちを「からゆきさん」と呼んだという。 一体全体この発端はなんであったか実はあの、福沢諭吉が明治天皇に、日本の少女らを海外へ売れば儲けられるのではないかと提言したというのだ。諭吉と言えば、いわずとしれた『万札の諭吉』【天は人の上に人を作らず 人の下に人を作らず】で知れた、明治の知将。 そして、明治天皇はこの案に乗り、なんと皇室と政府グルみで一大国家の人身売買(国家売春)を執…
ここで、昇の生まれ育った大村藩について触れておきます。 まず、藩域を地図で示しましょう。 大村市観光振興課「大村観光ナビ」よりこの地図でわかるように、大村藩域は広大です。琴海(大村湾)を挟んで、西側の西彼杵半島の全域から五島灘の島しょ部、さらに、その西は五島列島を領する五島藩、東は多良山系山稜を境にして佐賀藩に接し、南も佐賀藩の諫早領、さらに長崎の天領、北は平戸藩という具合です。 大村藩の藩領は、琴海の東側の「地方(じかた)」、同じく西側の「内海(うちめ)」、南部の長崎に接する「向地(むかえち)」および五島灘に面する部分と島しょの「外海(そとめ)」の 4 つに分けられました。 米を栽培する平野…
京都写真クラブ主催の『The 28th HOW are you, PHOTOGRAPHY? 』が、河原町通り四条上ルのギャラリーマロニエを会場に、今日から始まりました。小生は3階に『聖バルトロマイ』と題した絵葉書5点構成を出品。会期は24日(日)迄、ご高覧いただけると嬉しい。 「バルトロマイ」はイエスの12使徒の一人としてダ・ヴィンチの最後の晩餐左端に登場、ミケランジェロの大作『最後の晩餐』でも描かれている。「イエスの死後、アルメニアでの伝道活動中、皮剥の刑にあい殉教」したといわれ、イタリアでは特に人気の守護聖人、黒死病から身を守ってくれるとか。上図の彫像(ミラノ、ドゥオーモでパチリ)がマント…
12月6日(水) 39日目 伊王島大橋の袂に泊まったので、伊王島に行ってみます。まずは伊王島灯台へ。すぐ下に灯台記念館もありますが開館前、ダム検証があるので歩を進めます。途中でカトリック馬込教会へ。伊王島を後にすると、今日は野母半島を巡ります。黒浜ダムへ向かいましたが、またナビ子が1車線道を選択するのですよ。1km余分に走れば国道が通っているのに。まあナビ子にお付き合いします。黒浜ダムから高浜ダムに向かう途中に夫婦岩がありました。えらい緑がかってるなと思ったら、変班れい岩で九州最古の岩らしいです。高浜ダムから権現山展望公園へ向かいます。権現山展望公園は40年ぶりの再訪です。端島(軍艦島)を初め…
も~~ い~~くつ寝~~~る~~~と~~~~~ ・・・・って あああああああっっっ!!!! はやいっ はやすぎるもくぅぅぅ (。>ε<。 )) この前まで半袖でも平気だったような気もするんだけど もう今年最後の月もくかぁ (;゚з゚) こんにちは 1年があっという間で戸惑い中の のろしもく さて 戦国IXAでは 12月 の 追加武将 が 公開されました もく 追加されるのは 【 極 】 今川氏真さん 津軽為信さん 陶晴賢さん 京極マリアさん 【 特 】 伊奈忠次さん 尼子義久さん 大村純忠さん 【 上 】 土屋昌続さん 【 序 】 山崎長徳さん 以上の 9 名 ----------------…
安部龍太郎「海の十字架」を読む1 書名にもなっている大村純忠の物語は、ポルトガルの交易とセットになったイエズス会の布教を、いかに自身に有利な方向に利用するか? 戦国時代ならではの駆け引き劇が読者を楽しませる。少々怪しげなバルトロメオが、ストーリーの仕掛け人として立ち回る。 結果として、なぜ長崎が国際港として開かれたのかを語る、さらりとした下げもよかった。 続いて世界遺産宗像大社の大宮司であった宗像家本家最後の当主である宗像氏貞の話。大内、大友、毛利のせめぎ合いの中で生き抜く術を探る様子が描かれている。 「海の桶狭間」は船乗り視点の桶狭間戦記。 今川義元の進撃とリンクして、織田信長を討とうとした…
天正遣欧少年使節は、九州のキリシタン大名であった大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、日本で初めてヨーロッパを訪問した団体。その目的は、日本人にキリスト教をより良く理解してもらうこと、そして同時に日本の文化をヨーロッパに紹介するためだった🤔 行くのも、帰ってからも大変だった。日本とヨーロッパをつないだ「天正遣欧少年使節」 | 歴史・文化 - Japaaan