京都の五山の送り火で有名な大文字山。30分程度で登れる、登山初心者向けの山である。大文字がある西側の前峰466mを大文字山、最高点である主峰474mを如意ヶ岳と呼ぶ。如意ヶ岳は大文字山とひと続きの山で、京都側からは全く見えない。昔は両方を合わせて如意ヶ岳と呼ばれていたが、現在では別々の山として扱われているが、しばしば混同されることもある。
五山送り火:毎年8月16日に京都市で行われるかがり火。他にも「妙法」「舟型」「左大文字」「鳥居形」がある。大文字の点火時刻は20:00。
大文字送り火の起源は弘法大師創始説や足利八代将軍義政が、息子の将軍・義尚が若くして病没したのを悲しみ延徳元年(1489年)の初盆の時、相国寺の傑僧・横川景三(おうせんけいさん)が大文字を書き、家臣・芳賀掃部(はがかもん)が設計して火を灯したという。相国寺百十五世の維明周奎(1731〜1808)の墨跡にこの事実が詳しく記されている。しかし、大文字送り火の最も古い記録は船橋秀賢の日記「慶長日件録」の慶長八年(1603)の「山々灯を焼く。見事に東河原に出でおわんぬ」とされている。洛中(京都市中心部)から鮮烈に眺められる送り火の記録が三百九十年前までしかさかのぼれないのは不思議である。
江戸時代以前の文献に特に記載はなく、近代に入って諸説が唱えられている。まず大は星形を字に現したものという考え方がある。これは仏教でいう悪魔退散の五芒星のことである。この星は北辰を意味するという見方もある。北辰は北極星、あるいは北斗七星のことである。宇宙にあって、夜ごとその位置を変えない北極星は神格化し、信仰の対象となった。千葉周作は剣の一派を打ち立て、北辰一刀流と称していた事はよく知られている。北辰は北辰権現と呼ばれ、北辰祭が行われた。奈良朝から平安時代にかけ、朝廷では「御燈」と称し、陰暦三月と九月に、山に御燈を供え、北辰をまつった。この場所は京都では、北山零巌寺付近(今の西賀茂舟形送り火付近)から月林寺(比叡山山麗)円成寺(大文字山麗鹿ヶ谷付近)へと場所は変わったという。これをもって送り火の起源とする説もある。次は弘法大師が大字型に護摩壇えをつくったことによるという説である。地元の浄土寺地区では、弘法さんが人体になぞらえて大の字形に護摩壇をつくり、教養をし、病魔退散、五穀豊穣、国家安泰を祈願されたという伝承が残っている。また、仏教ではあらゆる物体を構成する四つの元素を想定している。それは地・水・火・風の四者で、四大と呼ばれており、人体もこれから成り、大文字はこれを意味するとも言われている。
第二次世界大戦中、送り火は中止されていたので、代わりに早朝に白いシャツを着た市民(地元の第三錦林小学校の児童ら)が山に登り、人文字で「大」を描いた。
数十年前、送り火の当日に大学生が、点火と同時に、大の字の右上部分で火を焚いき、「大」ではなく「犬」の文字を浮かび上がらせた。もちろん大騒ぎになり、大学生は逮捕されたと言う。
京都市、左京区、東山