大塩平八郎(おおしお・へいはちろう、1793〜1837)
江戸時代後期の儒学者で、大阪町奉行所の与力を務めましたが、後に辞職して、自宅に洗心洞という儒学塾を開いて陽明学を教えました。塾を開いて6年後に天保のききんが起きて、大坂の市中に飢えた窮民が続出する事態となりました。その状況を黙って見過ごすことができなかった平八郎は、人々を救済するために大阪城内の非常用の米を窮民たちに分け与えるよう当局に申し入れましたが、聞き入れられませんでしたから、自分の本を売り払って作ったお金を困っている人たちに分け与えました。1837年、ききんで苦しむ庶民を横目に、自分の利益のために米の買い占めに走って米価のつり上げを謀っている大商人や、私利私欲に走るのみの役人を懲らしめる決意をし、同志と共に大阪で一揆を起こしました。世にいう「大塩平八郎の乱」ですが、幕府によって1日で平定されてしまい、その1か月後には平八郎も自ら命を絶ちました。一揆は成功しませんでしたが、この事件の首謀者が直参の旗本であり、かつ、元町奉行所与力という要職にあった人物であったことから世間に大きな衝撃を与えました。その後、備後三原の一揆や越後柏崎における生田万の乱、それに摂津能勢の山田屋大助による百姓一揆など、各地で一揆や打ちこわしが起こるきっかけとなりました。