70年代のプロ野球選手。現西武ライオンズヘッドコーチ。
右投右打、ポジションは外野手。背番号は51→3番。
1943年12月8日生まれ。大阪府柏原市出身。
1961年、大鉄高校*1を中退。16歳で養成選手として近鉄バファローズに入団。
翌年の1962年、別当薫監督に見出され18歳で4番打者を務める。
その後、バファローズのスラッガーとして打撃陣を牽引。
パ・リーグの中心打者として活躍。しかし、打撃3部門のタイトルとは無縁だった。
1975年、柳田豊・芝池博明との1対2の交換トレードで、太平洋クラブライオンズに移籍。
同年、40本塁打を放ち念願の本塁打王を獲得。
1978年、身売りで所沢移転に反対していた選手の中で、「俺はどこででもやる」という発言で選手がまとまり、決意。
1981年、恩師の根本陸夫に説得され、現役引退。
1982年、西武ライオンズの打撃コーチに就任。清原和博らを育てた。1988年、退団。
1995年、打撃コーチに復帰。
2002年、退団。文化放送の野球解説者を務める。
2004年、西武ライオンズのヘッドコーチに就任。
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*1:現在の阪南大高校。