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南浦紹明

(読書)
なんぽじょうみょう

「ジョウミン」とも読む。駿河国安倍郡生まれの禅僧、1235〜1308。
5歳で建穂寺の浄弁法師、15歳で建長寺の蘭渓道隆に師事した他、25歳の正元元(1259)年には入宋して虚堂智愚〔きどうちぐ〕(1185〜1269)の印加を受けている。〈つまり末尾が「5歳」の10年毎に進化していった訳である。〉
文永4(1267)年の帰国の折に、「茶典」や「台子」などの茶道具一式を持ち帰り、“作庭師”で有名な「夢想疎石」(1275〜1351)などに中国の茶の方法を伝えた。――この頃には既に約100年前に、臨済宗の開祖である「栄西」(1141〜1215)が本式の茶を伝えているが、これを更に詰めたのである――。
当時は北条執権の鎌倉後期である。保護される「五山派」と、そうでない「林下」があり、「林下」は当然のように“反主流”の気運に満ちていた。半分公務員みたいで出世欲まる出しの、スノッブ極まりない利権主義の“正道”なんぞよりも、とことん本質を追求する俺たち“禅宗”の方がいいもんね〜!と云わなかったにせよ、そんなヒッピー連中も取り込んだ。「一休宗純」、「沢庵宗彭」、「白隠慧鶴」等々。
そして、建長寺の「南浦紹明=円通大応国師」と、大徳寺の「宗峰妙超=大灯国師」、妙心寺の「関山慧玄=無相大師」の3人から、それぞれ一字づつ採って「応灯関」の禅と呼ばれる。
文永7(1270)年にフビライの使節が来た際に、その応答をしたのはこの「南浦紹明=円通大応国師」である。たまたま、筑前国興徳寺の開山のため赴いていた。

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