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十河信二

(一般)
そごうしんじ

第4代日本国有鉄道総裁。
明治17(1884)年4月14日愛媛県新居郡中村上原に生まれる。
昭和56(1981)年10月3日死去。享年97歳。


新居浜の農家に生まれ、西条中学、松山中学東予分校(現西条高校)、東京帝国大学政治学科に進学。
明治42(1909)年、東京帝国大学法科大学(現東京大学)を卒業後、帝大在学中、標準軌への改軌を唱える後藤新平初代鉄道院総裁に出会ったのをきっかけに、大正元(1912)年、鉄道院参事に就任。
以後経理畑一筋の人生を送り、大正6(1917)年、鉄道事業研究のため米国に留学(〜7年8月)。その後大正12(1923)年帝都復興書記官に出向し、関東大震災の復興事業に尽力を尽くし、のち大正15(1926)年鉄道省経理局長を最後に退官。
その後満州で満州鉄道理事、興中公司社長を歴任。のち昭和13(1938)年興中公司の社長を辞して帰国、育英施設西条学舎を建設。
戦後は昭和20(1945)年愛媛県西条市長に就任、一年後の昭和21(1946)年には公職追放によりその職を辞した。(その間、一度も市長としての給与を受け取らなかったという)
その後、昭和30(1955)年、第四代日本国有鉄道総裁に就任、二期八年、総裁を務め上げた後、昭和38(1963)年、任期満了で退任した。

その功績から、「新幹線の父」と呼ばれている。




十河信二と東海道新幹線

愛媛県西条市長辞職後、十河は鉄道関係の仕事を続けていたが、昭和29年青函連絡船洞爺丸の海難事故(乗員乗客1051名が死亡)、翌年宇高連絡線紫雲丸の海難事故(修学旅行の学童108名を含む乗客乗員168名が死亡)と人為ミスが続き、引責辞任した長崎惣之助前日本国有鉄道総裁の後任として国鉄OBの十河に白羽の矢が立てられた。
当時、災難続きの国鉄の総裁は、なり手が居ず、十河も一度は老齢・病後を理由に固辞するも、同齢同郷の政治家、三木武吉に説得され、やむなく引き受ける。
就任会見で放った「国のため・国鉄のため・最後の御奉公だと思い、線路を枕に、討ち死にする覚悟で引き受けました」という発言にはマスコミの批判が集中した。

就任後、十河は当時、世界的に鉄道の斜陽化が叫ばれ、赤字、大事故、ストライキの三重苦に悩まされ、生気を失っていた国鉄職員に、「夢」や「希望」を与え、活気づけるためにも、と、東海道新幹線計画を一挙に進めた。
新幹線研究報告を要請した際、当時の国鉄技師長藤井松太郎が「広軌新幹線を作る金もシステムも、国鉄にはない。適当にあしらっておけ」と言った際、十河は激怒し、「技師長にはもっと視野の広い人物に座ってもらいたい。替わってくれ」と言い、技師長を辞任させた話は、有名である。
また、十河は、新しい技師長に親子二代、筋金入りの広軌(標準軌)派技術者であった島秀雄をスカウトした。
その後、十河は東海道新幹線計画を推し進める。3000億円以上必要だという明らかな予算不足が明るみに出た際も、適当に数字を合わせ、1972億円に圧縮させるなど、多少傍若無人に振舞ってでも、新幹線計画を推し進めていた。

十河は二期目、首の皮一枚で生き残った。水面下では、十河の事をよく思わない保守派の国鉄幹部や赤字路線を新規建設させたい政治家などと、熾烈な駆け引きが繰り広げられていた。
最後に、旧友、吉田茂の鶴の一声でなんとか続投できたものの、この間に新幹線を進めるところまで進めなければ、次は無かった。
その後、十河は在来線の保守、維持、管理の予算も削り、回した。また、土木、建設から電気、車両設計に至るまで技術者をも軒並み新幹線計画へ回し、なりふりかまわなかった。
旧日本軍の部隊になぞらえ「関東軍」と呼ばれた。
十河は一期目以上になりふりかまわず新幹線計画へ邁進した。世界銀行から昭和31(1961)年5月に借款した8000万ドルの金が、それを後押しした。世銀から借款した以上、天地がひっくり返ろうとも、新幹線を完成させる義務が生じるからである。この時点で、新幹線は完成を確約された。
その後、人為ミスによって引き起こされた死傷者485名の三河島事故が起き、新幹線計画に人員、資金をつぎこんだことが原因だ、と十河批判が再燃した。
さらにその後、当初予算からの不足が明るみに出ると、算段に迫られた十河は苦心の末不足分1000億円を鉄道債権で調達するもさらに874億円の不足が明るみに出、開業までの続投を望む内外の声が高まるも、昭和38(1963)年5月19日の任期満了を持って退任、「十河再再任せず」ということが政界上層で決定し、十河は退任した。
昭和39(1964)年10月1日東海道新幹線開業式のテープカットの晴れの舞台、十河は自宅で、ひっそりテレビでその模様を見、引き継いだ石田礼助新総裁からは招待どころか、何の音沙汰も無かったという。

東海道新幹線はその後、大成功をおさめ、鉄道業界を大いに活気付けた。
東海道新幹線も延伸し山陽新幹線で、博多とまでつながった。

死後、遺骨を故郷の新居浜に持ち帰る際、十河の遺志通り、新幹線を使用すると、各駅で、職員の丁重な葬送を受けたという。十河の人望の厚さを感じ取れるエピソードである。

東京駅18・19番ホームの新橋駅寄りに、氏の新幹線開業功績を讃えたレリーフが飾られている。

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