勝間田氏が本拠とした城。ただし、創始期からの本拠ではなく、室町時代からの城である。 勝間田氏は、八幡太郎源義家と相良荘司藤原光頼の娘との間にできた庶子家永(家長)を祖とする横地氏から分かれた支族で、家長の次男十郎が勝間田の地名を姓としたことが始まりという。 その子孫は、勝田とも書かれ、宗家の横地氏と行動を同じくしていたようで、平安時代末期の源氏の興隆に貢献し、鎌倉幕府創設後は吾妻鏡に御家人として勝田成長が見えるほか、源実朝の時代には兵庫頭が宋への使節団の一員となり、建長2年(1250)には史料上に兵庫助の名も見える。 このように、勝間田氏は鎌倉時代を通して、御家人としての地位を確保していたよう…