禅やヨガに中学生の時分から興味があった。大人になってから、坐禅は目的を持って行うものではない、ということが分かった。分かったというのは、理屈を理解したということであって、境地に至ったとか、体得した、ということでは決してない。理屈で分かっても身体でそれを実現できないということはよくあることだ。特に趣味であるブラジリアン柔術においてはその傾向が甚だしい。繰り返し練習あるのみだ、身体で覚えるしかない、と言われても、やはり理屈を知りたくなるのは性格だろう。 円覚寺門前。瑞鹿山と掲げられた下に座る鹿柄のユク坊。 坐るのはただ坐るのである。坐ると無我になれるとか、健やかになれる、などのことは脇に置け、とい…