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児玉誉士夫

(一般)
こだまよしお

右翼運動家、政財界のフィクサー

 1911年 福島県安達郡本宮町生まれ
 1920年に朝鮮に住む親戚の家に預けられ、京城商業専門学校を卒業した後、工場労働者と働く。
最初社会主義に傾倒したが、その後国家主義に転じ、玄洋社の頭山満に私淑した。
1929年には赤尾敏によって創設された急進的な右翼団体「建国会」に参加。すぐに昭和天皇に直訴しようとして捕まり、半年投獄された後、1932年に「独立青年社」を設立、当時の斉藤首相や閣僚の暗殺を計画して、3年半の懲役刑を受けた。
 1938年に日中戦争が始まると、外務省情報部にスパイとして採用され、その後日本海軍航空本部の嘱託となる。この間、児玉は中国全土に広がる日本のスパイ網を築き上げたといわれる。1941年、31歳の児玉は上海に「児玉機関」と呼ばれる店を出した。これは中国人を脅かして、タングステンやラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資をただ同然の安値で買い上げ、海軍航空本部に納入する仕事だった。形は商取引だが、実際は中国での略奪であった。児玉はこの仕事でダイヤモンドやプラチナなど1億7500万ドル相当の資金を有した言われている。
 戦後この財産をもって上海から引き上げ、東久邇宮内閣参与となったが、間もなく戦犯の疑いで占領軍に逮捕。その後釈放されアメリカCIAに協力するようになった。さらに上海から持ち帰った資金の一部を自由党結成資金として投じた。これによって児玉は自由民主党に対し影響力を行使できるようになった。またヤクザを右翼の政治的影響力の下で組織し「関東会」を結成した。関東会はまもなくヤクザ同士の対立で解体したが、児玉のヤクザに対する影響力は残った。
 1958年からロッキード社の秘密代理人となり、日本政府に同社のF-104戦闘機を選定させる工作を開始。しかし彼の影響力の及ぶ自民党の有力者の多くが死亡しており、当時の田中角栄幹事長と交友関係のある小佐野賢治に頼るようになる。小佐野は日本航空や全日本空輸の大株主でもあり、ロッキード社製のジェット旅客機の売り込みでも影響力を発揮した。1972年に田中角栄が首相になると、児玉の工作は効を奏し、ロッキード社の日本での売上は拡大した。
 1976年、米上院の公聴会でロッキード社の事実が明らかになったが、65歳の児玉はすぐに発作を起こし病身となる。同年3月23日、かつて児玉に心酔したこともある29歳の映画俳優前野光保がセスナ機で「国賊」となった児玉の豪邸に自爆攻撃を敢行したが、運よく児玉は別の部屋に寝ていて助かった。しかし、間もなく児玉は脱税と外為法違反で起訴。
 1977年6月に一度公判に出廷した後は病気を理由に出廷せず、判決前の1984年1月に再び発作を起こして世を去った。

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